表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
452/728

196. 死に至るまで

196. Hasta la Muerte


べろり、

Siriusの巨大な舌が俺の身体を腹から顔にかけて這い上がったとき、

俺は絶頂にも似た震えに身体を悦ばせた。


Skaが自分を慕って口元を舐めようとして、勢い余って顔面を濡らすことを想って、

これは本望なのだと気づかされる。


ああ、そうか。

そのまま舌で絡め取って、丸呑みにしてしまおうと言うのだね。


了解したよ。

狼らしいと言えば、それらしいことだ。


俺は伸ばしていた両腕で、ざらざらとした舌に抱き着こうなどとする。

でもねえ。それはあいつに言わせれば、ちと行儀が悪い。

教養の欠けた狼のすることでもあるのだ。


だから、どうか一噛みだけ、添えておくれ。


胃袋の中で窒息するより、胃液でじわじわと皮膚を蝕むより早く、

その牙で、俺の身体を、貫いて。



そうでないと、俺は寓話のハッピーエンドのように、


「……。」


生き永らえて、しまうんだ。




「…………。」




相当に、俺の身体は不味かった。




彼は、俺を押し倒してしまいそうなほどの圧で舌を一度押し当てて。




それだけ。






「な……ん、で……」






あんだけ、唸っておいて。


喰い殺すぞと、牙を剥いて。


Fenrirみたいに。







「執行猶予だ。」






「……。」






「どのみち、そう長くはあるまい。」


我が、死神を買って出てやる必要も無い。


「せいぜい、人間の寿命程度しか、持たぬであろう。」


主がヘルヘイムの果てまで届く声で、ぎゃあぎゃあと未練がましく嘆くのでは、

夜も眠れぬ。勘弁願おう。


この娘のため、平穏を保つことも、きっと我には任されていよう。




「おお、見つかってしまったかのう……。」


……?


唐突にSiriusは明るい声を上げると、もう俺には興味は無いと尻尾を向け、

トロットでヴァン川の水面を中央へと進んでいく。


「流石ダヨ。オ嬢。」

「う……ん…?」


どんどん、見つけるのが上手くなっていくな。

主には、狼の才がおありなのかもしれぬ。


なんて、な。

ああ、我の失礼な戯れをお許しくだされ。

「本当?…そんなことない。」

私、とっても嬉しいわ。


しかし、もう隠れん坊は中止だ。ヘル。

もうお家に帰る時間だぞ。

「うん…そうね。お腹、すいちゃった。」



「ねえ、ガルム。」


「…おんぶ。」

転んで、すりむいちゃったみたいなの。

それに、今日はいっぱい走ったから、

疲れちゃった、もう歩けないわ。


「ふふっ…勿論だ。背中の上で、ゆっくり休むのだぞ。」


Siriusは舌で優しくヘルの膝を舐めると、恭しい仕草で腹ばいとなり、彼女に鼻先を差し出した。

耳の間をよじ登るまでじっと待ち続け、尻尾をご機嫌にゆらゆらとくねらせる。





そうして立ち上がった、Siriusの姿は、

彼女が望んだ最高の友達であって間違いないらしい。




「残りの時間…彼女と好きに使うが良い。」




「最期まで看取れ。」


あの仔は、瞬く間に去り行くぞ。

主よりも淵に近い。

幸せにとは言わぬ。

しかしそれを、忘れてしまうぐらいに。




主よ。

其方は、神様であったのだから。

考えたことがあるだろう。


幸せとは、何であろうかと。


崇高であろうなどと、しなくて良い。

倦ね、藻掻き、自分なりに答えを導き出し。

それを拠り所にして、どうにか生き永らえて来た筈だ。




Teusよ。

我の場合は、だ。


‘忘れられる’ ことだと、考えておる。



「忘れる…?」




どれだけ辛いことも、いつかは糧となってくれるから。

だから、死に瀕するほどの傷跡も、或いは群れとの唐突な別離も、

ちょっとした、心に響いた出来事でさえも。

なるべく鮮明に覚えていたい。


それが出来ていなかったのなら、

我は心から恥じ入り、己を責めて、地獄の淵からさえも、飛び降りてしまうであろうと。


どうして、あんなことがありながら、

目の前の飽食に、満足しようなどと考えられようか。


片時だって、我の内に巣食っているのでなれば、

我は生かされた意味が無いのだ、と。




「…そう、精神を保ち続けることさえ、我の薄弱な意志では、叶わなかった。」




主よ、考えられるか?

のうのうと忘れてしまったのだよ。


本当に楽しい、毎日であった。

この仔と一緒に、眠っている時以外は、ずっと遊んでいた。


地獄で出会えた群れ仲間たちは、我にかけがえのない幸せを与えてしもうたのだ。




「我は、幸福に、Garmであったのだ。」




まるで、あんな日が、無かったかのように暮らせたのなら。




それで惚けていようとも、




我は幸せである。




そういうことだ。




主には、少しも交わらぬ世界よ。




Teusよ、我が旧友の蒼き影よ。

これは契約だ。




予言してやる。


「主は、必ず裏切るであろう。」


「我は…我は主のことが、大っ嫌いだっ…!!」


「味見をして、直ぐに分かった!!」


「誓っても良い!主は、最後の最後で、あの老い耄れのように狼を裏切るであろう…!!」


「もうそれは、殆ど運命のようなものだ!貴様なんぞに、抗えるとは到底思えん!!」


「良いか!?主はFenrirにとって、最悪の友であると言っておるのだ!!」


もし、この狼の魂に傷一つでもつけてみろ。

貴様を必ず、ニブルヘイムへ叩き落とす!!


一言一言を吐き捨てるたびに激しく唸り声を上げ、もう噛みつきそうなまでに勢いを増していが、

ヘルが寝返りを打ちでもしたのか、慌てて勢いを弱める。




「しかし、もし本当に。」

その運命を、捻じ曲げたなら、

Fenrirが、本当に狼になれた時には、


そうだな。

主には、家族となって貰うとしよう。


ヘルには、父親が必要なのだ。

今は、我のことを、そのように思い慕っておる節があるが。

主のことが、心の底から気に喰わぬが。

彼女に寂しい思いをさせたくは無いのだ。



だから、主を、

ひとを、信じるとしよう。




それだけを吐き切ると、彼はもう、この世界で別れを告げるべき狼たちの元へと向かってしまった。




“Yonah……。”



其方は、一匹では無いのであるな。

素晴らしい家族だ。

あの幼子は、我とは似つかぬとも思っておるのだが。

しかし、紛れもなく、立派な狼であることよ。


ああ、或いは大狼の毛皮を脱ぎ捨て。

あの仔は、我の夢を叶えてしもうたのやも知れぬな。



“お元気そうで、何よりであった。”


“残念ながら、またお別れのようでございます。”


“……!?”


“良い夫を迎えられたようで、安心しましたぞ。”


在奴も我とは、似ても似つかぬ出で立ちではあるが、間違いない。其方に相応しい統率者の器だ。




“我のことを、忘れていてくれたのなら、それは貴女が…貴女が…”


声を詰まらせ、ぎゅっと目を瞑る。


“…Yonah。我はずっと、待ち続けておる。”


“きっと我は、貴女のことを、一秒たりとも忘れられぬのでしょうなあ。”




そんな風に、礼儀正しく装っても、

けれど、もう最後には、彼女への愛が抑えきれなくなって、

彼は無邪気に尻尾を振り回して、甘えるような吠え声で、


“大好きだ!大好きな臭いだ!”


“ずっと、ずっと嗅いでいたいのに…!!”


“Yonahぁっ…ああ…ああ…”


“ああああああっ……うあぁっ…Yonahぁぁぁ……!!”


Siriusは、泣いた。




“もう、この世に思い残すことは、無いのになあぁ……”




これ以上、ぐしゃぐしゃに崩れた顔を見せられません。

覚えていてくれるのなら、笑顔が良いに決まっているのです。




“この世の果てで、またお会いいたしましょう。”




“……。”









「さあ。時間のようだ。」



“皆、帰るぞ。”



“アウォオオオオオオーーーーーーーー……”



“ウォォォーーン…”



“オォォーーーーアウォオオオオオオ………”





高波が突如として、水面を隆起させる。

世界蛇が、横たえていた身を捩り、地中の奥深くへと滑り出したのだ。


俺達が海岸沿いから帰るまでに、幾度も体験した地鳴りと共に、

目の前の水平が大きく歪む。





「……そして、主よ。」


最後まで、声を掛けなかったのが、いじらしくさえあった。

Siriusは、もう一匹の大狼へと、視線を堕とす。




「主よ、我が狼よ。」




“いいや、Fenrir。”




“Fenrir、強くなったな。”




「……!!」




“オ嬢に無理を言って、地上へ這い出て来た甲斐があったというものだ。”




“主が、こんなに幸せな仲間に囲まれておると、分っただけでも。我は嬉しい。”




「うぅっ…うぇぇっ…うえぇぇぇぇぇっ……」




「しりうすぅぅぅ……しりうずぅぅぅっ……」




「うああああああぁぁぁぁぁ………。」




“Fenrirよ、忘れようとはするな。”




“しかし、今在る友を、決して蔑ろにするでない。”




“そうすれば、きっと奇跡は、主を導いてくれる。”




“きっと我らを、再び引き合わせてくれるから。”




「待って…!Siriusっ…シリウスゥゥゥゥッ……!!」



「俺もっ…俺も行きますからっ…お願いっ…置いていかないでっ…!!」



「いなくなっちゃ嫌だぁっ…!シリウスッ……シリウスゥゥゥゥッ……」







「必ず…!必ず貴方の元へ向かいますっ…!!」



「だからっ…だからその時はっ…その時はっ…!!」



「今度こそ!今度こそ貴方の群れに、入れてくださいっ…!!」







「……。」




「好きにするが良い。」







沈みゆく船殻の上を、Siriusは決して踏み外すことなく、滑るようにして歩く。


その渦の中に、誰かが巻き込まれていくのが見えた気がして、


彼女は、こう呟いていたんだ。


「お似合いの、夫婦ですね。」



「……!!」





番狼の吠え声が、聞こえて来る。




「達者でな。Teus」

Live it well, Teus.




「我らは、必ずまた会うことになる。そうだな?」

You know, we’ll meet again, right?




「……。」




「ああ。」

See.




「必ず。」

Until Death.




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ