194. 神話解放 2
194. Myth Unbound 2
LokiとTeusだけじゃない。
その場に居合わせた全員の視線が、ゆっくりとヴァン川の畔へと移る。
「……。」
人々の前に姿を晒そうと、一切臆さぬ。
悠々とした出で立ちで、対岸の営みを窺うその眼差しに、
俺達は遥か昔から、畏敬の念を抱き続けて来たんだ。
「おかえり、」
彼らとは、大いなる神の化身である、と。
「Sirius。」
良かった。
どうにか息絶える前に、彼女へ触れることが叶ったらしい。
ほんのちょっと、ちょっとだけ、その手に触れるだけ。
それだけで、オ嬢の愛情を受け取るのには十分だったのだ。
彼が、地獄界の女王を護る番狼である限り、
尽きぬ遊びの子守役である限り。
天狼は不死身であるのだ。
「……。」
平和な夢に目覚めたように、彼は世界を見渡す。
見紛うほどの全快ぶりだった。
俺との激闘の跡を、微塵も残さないどころか、
益々の清祥に、恐れ入ってしまう。
そう願っている心を取っ払っても、息を吞む美しさだ。
初めて洞穴の前で対峙した時よりも。
猛吹雪の晴れ間に見かけた気がした夢よりも。
地獄から舞い戻った貴方でさえも。
今のあなたに及ばない。
思わず見入って、涙が零れて。
見劣りする己に気が付いて、目を逸らしてしまいたくなる。
“……。”
初めてTeusの言葉は、それらしく響いたのだと思う。
Siriusは美しい毛並みの半身を声の主へと晒し、頭を低く構えていたが、
やがてゆっくりと、声の主の元へと水面の上を歩きだした。
「…死に損ないやがって…!!」
誰もが奇跡に酔わされる中、素早く理性を取り戻したのは、Lokiだった。
この幸運過ぎる神様にいくら照準を合わせても、無駄なことだ。
いち早くTeusが握りしめていた拳銃を振りほどくと、明確な脅威と看做した大狼へ、その銃口を向ける。
バァァーーーーン…
キンッ…
「……!?」
無事に弾詰まりは解消されたものの、銀弾は獲物を射抜かない。
これでは、狼を狩れない。
嘗てTeusが撃ち抜こうとしたのを俺が阻止したように、
Siriusは造作もなく前脚の爪でそれを弾いてしまう。
バァァーーーーン…
「……。」
今度は、刃物が金属を弾くような響きは無かった。
“グルル…”
Siriusは僅かに唸り声を上げると、犬歯が顔を覗かせるよう、僅かに上唇を捲り上げた。
仲間への警告によく用いるような不機嫌だ。
構って欲しいぞとちょっかいを出されたけど、乗り気じゃないときや、
行き過ぎた愛情表現が受け止めきれず、鬱陶しくなったときの、
一匹にしてくれと主張するのに似ている。
端的に言えば、しょうもない抵抗に苛立っていたのだ。
牙の間に咥えられていたが、それは食べ物では無いと知るや。
遊び道具にもなりそうにないと悟ると。
ぽちゃ……
吐き出して、また歩みを進めていく。
カチンッ…
カチャン…カチャン…
3発目が発射されることは無かった。
弾切れにも暫く気が付けないでいるほど、Lokiは必死になって引き金に指を喰い込ませる。
「これは……」
懐に仕舞い込んでいたリボルバーも、最早何の役にも立つまい。
ようやく、彼が弱り切った獣などではないと悟った頃には、もう決していたのだ。
最早あらゆる武器が、狼と少女には届かない。
どれだけ降り注ごうともだ。
「少々、想定外のことが起きたようだ……。」
Lokiは懸命に冷静を装いながら、構えていた拳銃を立てて後退る。
「良いだろう…今回は、諦めることにするよ。」
“グルルァァァァァァァァッ…!!”
「っ……!!」
水面に広がった波紋が揺れ、陸地へと伝わると、それは地響きとなって辺りを震わせた。
空気が、一瞬にして張りつめ、
風が、不安を掻き立てるように騒ぎ、
太陽が雲を身に纏ったように、周囲が一段と暗くなる。
我を前にして。
逃げ果せられると、思うてか。
そう言っているようなものだった。
狩りの最高峰として謳われる狼に狙われたのだ。
「け、けど…流石のあんたも、転送の域にまでは至っていないんだろ?」
半ばそう言い聞かせるように笑うものの、地獄の底までついて行くという言い回しが、これ程相応しい狼もいない。
すぐさま、この場を立ち去らなくてはならないことを、否応なしに理解したのだった。
「覚えておけよ…義父上は、このことを必ずお咎めになる。」
「それは、こっちの台詞だぞ。Loki。」
嘘を張り巡らせたって、無駄だからな。
まあお前のことだから、味方は幾らでも増やせるだろうが、
良く知っているだろうが、主神の右眼だけは欺けない。
「まあ、よろしく言っておいてくれ。」
「もう、帰る気はない、と。」
「そうは行かない。必ずお前を…引きずり降ろしてやる…!!」
「ああ。一向に構わないよ。どうせ全て捨てた身なんだ。」
「この土地だって、俺をもう追い出すことだろう。」
「それじゃあな、兄弟。」
言い切る前に、彼の姿は西風が運ぶ波風の裾となって、消えた。
「…今は、生き延びると良い。」
何故なら、この狼の狙いは、お前だけではないのだから。
片方を仕留めるのが無理そうだと悟れば、深追いはせず、直ちに標的を次へと移す。
一種の合理的な狩りの思考判断に過ぎない。
当然のことだろう。
確かに俺は、この大狼と、その少女に約束したのだから。
「地獄で、先に待っているよ。」
‘家族’ になる、と。