191. 血糊の雨 2
191. Rain of Gore 2
“ヴウゥゥ…ゥゥゥゥッ……!!”
その声で、目が醒めた。
彼女の力に呼応するように、Siriusは苦悶の呻き語を上げる。
よく一緒に眠った、Teusの寝返りに過剰に反応してしまうのに似ているだろうか。
彼は首元の小さな生き物の蠢きに、感じたらしい。
“クウゥゥ…キュウゥ…”
Siriusの首元で、Yonahの悲痛な呻き声が聞こえる。
もしかすると、この夫婦は嘗て、このような姿勢で昼寝を謳歌していたのかも知れないと思った。
彼女を押しつぶさぬよう、気を使いつつ、布団のように優しく覆いかぶさるのだ。
実際、その役割を十二分に果たしたと言えよう。
庇われた彼女は、無事だった。
その息子も、護られたに違いない。
“……。”
俺も、声を上げようとしたが、上手く出せない。
息が、詰まっているのではない。呼吸をしていないのだ。
なのに、意識が微かに残っている。
近くまで、来ているのだ。そう直感する。
彼を生かすため、ぐちゃぐちゃになった縫合体を保つため。
それに、巻き込まれた。
彼女の恩寵の一端に、俺は触れてしまったのだ。
地獄界の大狼の復活の様子は、今までのそれとは、一線を画していた。
Siriusの毛皮にこびり付いた百足たちが、再び激しく疼き出すようなことは無かった。
実際、彼らの動きが多少活発になったところで、もうどうにもなりそうにはない。
百足だけでは、とうとう縫い口を担うのには足りない程の傷を、彼は負ってしまっている。
もしその術に頼ろうとするならば、ぼろぼろに破かれた布地を継ぎ足さねばならない。
毛皮が、必要なのだ。
彼はそれを、腹のうちに溜め込んでいた同胞から譲り受けていた。
植皮である、そう直感的に理解していたのだと思う、
そして、それに頼る事すら叶わない窮地に立たされた時、
彼女の奇跡は、愛すべき大狼の友に、力を与えるのだ。
“蘇って来る…。”
百足を失ったGarmの死。
完全なSiriusの復活。
自爆に巻き込まれたSiriusの死。
継ぎ接ぎのGarmの復活。
精神の台頭、その前兆。
次は…
Teusが、命を賭して託してくれた願いが、こんなにも霞む。
彼女だけは、犠牲を伴わなくて良いのだ。
この神話に於いて、死者を蘇らせることを許されるのは、
地獄界の女王のみであるのだ。
ぱしゃ…ぱしゃ、ぱちゃっ…
何処からともなく聞こえて来る、水面を弾く足音。
身分の自覚がない。何の前触れもなく、こんな風に入場して来られるとは、誰も予期していなかっただろう。
それは狼のものではなく、小さな二足歩行であった。
「見つけたわっ…やっと…!」
息を切らしながら、少女は叫ぶ。
「随分、探したんだからっ…!!」
荒廃した戦場をただ一人駆けることのできる、純真無垢なる神は、
未だ自分は、大狼との隠れん坊に興じている最中と考えているに違いない。
だから、見つけることが叶って、喜んでいる。
“Hell…”
“いるのか…そこに…?”
彼は優しく、ほくそ笑む。
これがSiriusの狙った通りの筋書であるとしても、
最後まで、遊び相手を退屈させはしなかったのだろう。
ヴァン神族にとって、これが破滅の引き金になるであろうことなど想像もつくまい。
当然だろう、誰もその再会を邪魔する輩など、居るはずが無い。
対岸に並び立つ神々のことを、何の脅威とも見做してなどいなかったのだ。
皆が、その仔を注視した。
ぼんやりと、ヘルが水面を乱してはしゃぐ様を見つめると
彼女は、自然に愛されているなあと思った。
野鳥や小動物、日光さえもが寄り付いて来るような優しさがあって、
何というか、美しくて、微笑ましかった。
晴れ間に輝く肌の艶も相俟って、
ヘルは何の比喩でもなく、ごく普通の少女に見えたのだ。
“―――……。”
“来チャダメダァァッ!!オ嬢ッッ!!”
“……っ!?”
バァァーーーーン……
‘こちら側から見て’、は。
突如として鳴り響いた銃声。
それは、俺が一瞬でも垣間見た平和が、
飽くまでこの戦場に咲いた束の間の光景であることを、鮮明に焼き付けたのだった。




