190. 魂喰らい 2
190. Souleating 2
正直、もどかしいというか、些細な苛立ちさえ覚えてしまっていた。
Skaがその場から一歩も動こうとしなかったことが、俺には意気地のない誠実に映ったのだ。
その距離、そしてその体躯だ。
とても間に合いそうにないし、割り込んでさし返せるとも思えない。
起死回生の一手など、無いのだ。
しかし、動かずにはいられないものだとばかり思っていた。
身動きすら取れないとは、目の前の残酷な現実を受け入れる用意を済ませてしまっているようなものだ。
仮にお前に、希求するように伸ばす左手が無かったのだとしても。
釘付けにされ、耐え難く目を背けることすらしないのは。
…それさえも、愛するYonahのことを想っての告別であると?
だとしたら、失敬であるかもな。とんだ横槍を差し込んでしまった。
だが、俺もまた、あの神様に毒されてしまった狼の一匹であるものでね。
咄嗟の気持ちに、嘘は無いのだ、とな。
望まれていない舞台上の目撃者であることは、百も承知だ。
しかし、観衆とは異なって、俺にはまだ、台詞を吐き、物語に影響を及ぼさない程度には演技が出来る。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
折り重なるようにして倒れていた俺は、かっと目を見開き、突発的に鎌首を擡げた。
Siriusの横首の毛皮に噛みつき、ぎりぎりの所で軌道をずらす。
ぐちゃっ…
“……?”
“Fenrirさn…”
ばっしゃーん……
彼の大口は、Yonahの僅かに右側を逸れて、浅瀬に水飛沫を上げて座礁する。
蛇がのたうつような取っ組み合いも無く、互いは結局折り重なった姿勢で絡まったままだ。
“フフ…フフフフッ…”
“う……うぅ…”
牙を突き立てる気力も無い。
元より質の悪いあがきでしか無かったが、本当に邪魔するので、精一杯だった。
Skaの代わりにすら、俺はなってやれない。
“…我ヲ殺シ損ネテ悔シイカ?Fenrirヨ。”
“……っ”
寂しげな笑いは、ともすれば啜り泣きのようにも聞こえてしまって、軽はずみな戯れに対する後悔は胸に深々と突き刺さる。
子供の無邪気さを憎らしく思うのに似ていた。
ほんのちょっとの勇気を理解し湛えてやろうとする懐の深さと、
それでいて、善がる心をますます俺から遠ざけようとする冷淡さが滲むのだ。
ああ、やはり自分の願いとは、
我が狼、Fenrirであっても、理解の及ばぬほどに歪んだ嘆きであると。
“ソンナ、腹ノ毛皮ノ裏ヲ空ッポニシタ身体デ、何ガデキル。”
“藁ノ上ノ死ヲ乗リ越エタ我ヲ、モウ誰モ止メルコトハ出来ヌ。”
“主デサエデアッテモダ。”
仮に其方に、まだ十全の力を振り絞る気概があれば、良かったものを。
響いては来ぬな。まるで歯牙にもかけないと思えぬ。
どうやら主よ、我を楽園へと送り届けるに足る闘志は尽きてしまったように見受けられる。
であれば、主は我に同意しかねるという意思表示だけは、しかと受け取った。
もう、これ以上の邪魔建ては、不要であると、分かってくれよう。
“……。”
そんな。
けど俺は、歪んでいる、とは露ほどさえも思えないのです。
貴方の他界が、どれだけ己を引き裂いてきたか、宿命を背負わせてきたか、俺は分かっているつもりだから。
この身を、Sirius、貴方へ明け渡そう。
そう思い定めたあの日から、確固たる意志を宿せた俺は。
貴方は決して同情なんていらないのでしょうけれど。
俺にとっては、妙に腑に落ちた求愛だと思ったのだ。
“ごめんなさい。我が…狼。”
“其方トテ、同ジコトデアルゾ。”
朗々と響かせたがっただろう、弱々しく呟くのは、彼にとって俺の抗いが、存外に応えたことを暗に示していた。
“我ヲ……ソウダナ、追放シテシマイタイダロウ?”
“テュールヨ。Fenrirノ友ヨ。”
“Sirius……”
そこでようやく、俺は直ぐ近くで、醜い狼どうしの縄張り争いを眺めていることを知った。
どうやら俺が初めて描いた奇跡は、成就していたらしい。
そしてこいつは、Garmが考察した通り、
GarmとSiriusを俺の元へ送り込めるよう、俺が目論んだし最後の呪いを上書いたのだ。
互いを信じて託した襷が
…こうなるとは、予測していなかっただろう。
済まなかったな。Teus。
勝てなかった。
Garmに止めを、刺せなかった。
俺もこいつも、Siriusを生かすので、やっとだったんだ。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
突如としてSiriusは憎々し気に牙を剥き、今度は水面が震えるほどの唸り声を上げて、
Teusではなく、対岸より迫る襲来に吠える。
“トンダ邪魔者ガ入ッタナ。”
「いたぞっーーー!!」
「やはり此処まで迫っておったか…!」
“……!!”
反射的に、脚が動かないながらも俺は狩られる側の逃れたい衝動に駆られる。
騒ぎに駆け付けた、ヴァン神族が、とうとうヴェズーヴァまで踏み込んで来てしまったのだ。
対岸の森から響き渡る地鳴りと、狼達の不穏な共鳴に耐えかね、遂に武器を持って立ち上がったのだと分かる。
大狼の襲撃からこの土地を護るのは、我々しかいない。
余所者のTeusだけに任せておくことでは、神々の和平は保たれなかったのだ。
それどころか、やはりあの時、この軍神を処刑しておくべきだったとさえ、考えるだろう。
全て、こいつのせいだ。
Teusを昨冬の事件の際に葬っておきさえすれば、こんな化け物たちは、我々の前に幾度も姿を現すことは無かったはずなのに。
「早く、早く厳戒態勢を敷くのだ!何としてもヴァナヘイムへ踏み込ませるなっ!」
「テュール殿、ご無事でしたか…彼女は、Freyaはどうされたのですか!?」
「おい、聞こえてるんだろ!?答えろ…!!」
そのやり取りは、いかにも烏合の衆といった様子で、神々の狼狽えっぷりが見て取れた。
“ドイツモコイツモ…何故ダッ…何故我ラノ邪魔ヲスルッッ…!!”
まだ、諦めずに奇跡に縋ろうとするか?
我らに、石を投げようとするか?
しかし、無駄な足掻きだ。
悠久の刻を越え、何度でも、蘇って見せる。
彼女を取り戻すまで、我は諦めぬ。
ダイラスだろうと、その双子の欠片であろうと、
テュール、主であろうともだ。
狼の群れの統治者としての、神であるだと?
防壁としてのヴァン川である此処で、主らは我に立ち向かう定めであると?
そんなものは、観衆の妄言に過ぎない。
”フフフ…現ニ、コウシテ我ハ、舞イ戻ッテ来タノダゾ。“
不敵な笑みを浮かべ、眼球を震わせると、激しく咳き込み、吐血で川を汚す。
その苦し気な様に、どうしても、Garmの面影が拭えない。
“ハァッ…ハァッ…ハァッ……”
対照的に、ヴァン神族の尖兵らは青褪める。
犠牲者は計り知れないものとなるだろうことを、言い伝えから予感せずにはいられなかったのだ。
そして次の一言は、俺自身さえも、彼を酷く怯えさせる群衆のうちの一匹にしてしまった。
“ソレニ見レバ、ドウヤラ貴様、モウ立派ナ、Hellheimノ民トシテ似ツカワシイ出デ立チジャナイカ。”
“……!?”
Hellheimの民、だと…?
“お、おい……どういう、意味だ…?”
そう尋ねずには、いられなかった。
Siriusに対してではなく、Teus本人にだ。
“……。”
“Teus……?”
彼の方を向けない。
対岸の景色が、水面下からでは、ぼやけて映らない。
“…ごめん。”
謝られても、分からない。
“どうしても、君だけには、夢を叶えて欲しかったんだ。”
分かりたくない。
まさか、まさかお前……本当に、
本当に、‘その命’を、
捧げてしまったのか……?
“最早、神様デモ、ナンデモ無イナ。”
“タダ、オ前ノ決意ハ褒メ称エラレルベキダロウトモ、考エテオル。”
“ソノ半生半死ノ身体…アノ娘ノ父親ニ、相応シイデハナイカ。”
“……っ!?”
嘘だ。
Teusが、諦めた、だと…?
お前が、負けを、認めたのか…?
不敗神話の、軍神に堕したお前が…
“アア。皆、連レテ行ッテヤロウデハ無イカ。”
敗戦の民の、大虐殺だ。
“解放セヨ、我ガ群レ仲間ヲ記念スベキコノ場ニ、参上サセタイノダ。”
これが、大狼によって繰り広げられる、神々の世界の蹂躙という訳だな。
良いだろう。望まれるだけ、其方らに藁の上の死を与えてやるとも。
所詮、この物語において、狼とは、悪役に過ぎぬ。
“皆ガ其方ノ匂イヲ、嗅ギタガッテオル。”
“暫シ此処デ待タレヨ、Yonah。”
直ぐに、終わらせて進ぜよう。
頭を亡くし、統制を失った群れほど、脆いものはない。
“Fenrir。ソレハ主トテ、同ジコトデアルノダ。”