190. 魂喰らい
190. Souleating
“貴女ヲ、藁ノ上デ、看取ラセテ欲シイ。”
それが、地獄に縛り付けられた大狼が、ようやく再会を果たした妻へのプロポーズだった。
墜ちるのは怖い。恐ろしいことだ。
もう、二度と離れ離れの世界の住民として、相手を想い漕がれずに済むのなら。
墜ちるところまで、墜ちてしまえば良い。
転げ落ちずに済む。
だから。
“嘘、だ……”
“嘘だあぁぁぁぁぁっーーーーー…!!”
“嘘だああああ………うあぁぁぁぁぁ……”
振り向けば、尻尾を未だ掲げたまま、しかし少しずつ力を失っていくSkaの姿があった。
他の誰もが、彼らの邂逅を喜び称えようとも。
彼だけは、声を上げねばならなかったのだ。
自分と、群れ仲間を襲い、全てを奪いに襲来する脅威そのものと対峙し、最期まで抗う。
その覚悟だけは、出来ているつもりだった。
そのすべてには、番の命さえも含まれていることだって、理解を拒みつつも。
奪われまいとして、容易くねじ伏せられるのだとしても。
たった一瞬の、ああ、死ぬのだなと悟った冷静さの中で、きちんとYonahのことを想い出せたら良いな。
そう考えていたのだ。
けれど、このような離別の形は、自分の想像の範疇を遥かに超えていたのだ。
信じられなかった。
毛皮に鼻先を寄せて、匂いを吸い込むだけで、いつも幸せな気持ちになれたのに。
あんなに僕と一緒に暮らすことを喜んでくれた彼女が。
脇目も振らずに、別の狼の元へと駆けていくだなんて。
それだけでも応えた。
勿論、僕らは繋ぎ合っていた訳では、決してないけれど。
けれど、彼女から、自らの意志で、自分の元を離れていく瞬間は、
今までのどの瞬間よりも、‘奪われた’ と感じられたのだ。
Yonahが、今此処で、自分の目の前で命を堕としたとしても、これほどの喪失感には襲われなかっただろう。
…この大狼の提案とは、まさにその死、そのものであると言うのに。
“アア。主ガ、今ノ彼女ノ、夫ノ役ヲ担ッテイル狼ダナ…?”
“感謝スルゾ。良クゾ我ガ迎エニ来ルマデ、彼女ヲ神々カラ守リ、寄リ添ッテクレタ。”
“なんだ、と…?”
半開きの口から覗かせる牙は、既に威嚇の鋭さを失いつつある。
Fenrirという狼を友に持った彼にとって、この大狼と張り合うことは途方もなく無謀であることを、身に染みて分からされてしまっているから。
彼女が自分とSiriusを天秤にかけた時に、なんとなく、その針がどちらに傾くのかは、予感してしまえたのだ。
“永劫大事ニスルト、約束シヨウ。ダカラ、其方ハドウカ、安心シテ欲シイノダ。”
“彼女ノ為ニモ、分カッテクレ。”
“……。”
誰よりも辛いのは、彼女であることは想像に難くなかった。
だからこそ、Siriusは一抹の我が儘を垣間見せた。
彼女に苦渋の選択を決断させることは忍び無い。
悲劇のヒロインで良いのだ。
幾らでも自分が、姫を攫う悪役を嬉々として演じよう。
無理やりにでも、我がものにしてやる。
“……。”
Yonahが、絶句する夫の方を俯きがちに振り向き、萎れた尾を見つめている。
彼女だって、自分が一生添い遂げる狼は、Ska以外にあり得ないと信じて疑わなかっただろう。
彼のことを、仮の伴侶であると思ったことなんて、ただ一度だって無かったはずだ。
理想の夫と子供たちに、こうして巡り合うことができて。
これ以上幸せになったら、転落した時が怖くなってしまうぐらいに、
いっぱいに大好きな臭いに囲まれて暮らしていたかった。
しかし、思い出してしまった。
思い出させられた。
それは、Fenrirと呼ばれる大狼と初めて出会った時には感じなかった天啓だった。
初めて、Skaと彼の主人に連れられ、自分の家族の顔を見せに赴いた時のことだ。
あの時も、何か運命めいたものを嗅ぎ取ってはいたのだが。
それは狼ばなれしたその巨体から来るものでしか無いだろうと、流せてしまう程度のものだった。
何よりFenrirは控えめで、情熱的に此方に訴えかけることがなく、それどころか、自分達に対して、怯えているような目つきこそ見せていたから。
確かに、今自分が、思いを伝えようと必死に舌を這わせている嘗ての番は、とても狼とは呼べない造形に変わり果ててはいた。
ぐちゃぐちゃに顔面が崩れ、毛皮も縫い合わされたように不揃いで、今にも息絶えそうなほどの衰弱の中で、狼にしか聞こえないような高い甘え声で、自分の下が触れることを喜んでくれている。
記憶の底で、朧げで幸せな夢のような記憶にしか存在しないと思っていた大狼が、
目の前に現れる日が、奇跡の日が、こうしてやって来たのだ。
思えば、自分は、こうしてずっと、貴方のことを、待ち続けていたのかも知れない。
必ず、私たちのことを、救いにやって来てくれる。
救世主としての狼だ。
そう考えたら、もう周りの声など、聞こえなくなってしまったのだ。
そんなつもりは無かったのに、夫は私に見捨てられたと思ったに違いない。
なんて、薄情な狼なのだろう、私は。
“……ごめんなさい。”
ただ一言、そう振り絞るので、精一杯だった。
それが、別れを告げているのだと取られても仕方は無い。
“待っ…て……くれ……!!”
目を伏せたYonahの背後で、Siriusの大口が糸を引いて開かれる。
この大狼は、何でも喰らうつもりなのだ。
食べてしまいたいぐらいに可愛い。
そう思った相手には、文字通り永遠の時を過ごして欲しいから。