188. 英雄の決意
188. Hero’s Resolve
何故だろう、雨が降っている気がする。
毛皮の端々から、水滴を落とされた感覚が抜けない。
“……。”
確かに水鏡に映った俺の顔は、眉間が落ち窪み、醜く歪んで拉げていた。
しかし、水面は、沈黙を保っているままなのだ。
雨上がりに漂う、きつ過ぎる息吹と繁茂の臭い。
辺りには、湿っぽい空気の流れが立ち込めていた。
春が、終わる。
“うえぇっ……うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛………うぇぇっ…えぇっ……”
終わるのだ、これで。
擡げていた頭を、こうして支えているだけで精一杯だ。
睡魔と戦った所で、勝ち目がないのと、まるで同じ。
若狼の悲痛な叫びも、今は少しだって心に響いてこない。
ともすれば河の潺に負けそうなぐらい、耳心地が良いのだ。
“ウ、ウゥ……。”
目が醒めたか、兄弟。
そう言っておこう。
俺のものではない。
全身を潰されたはずの大狼が、何処からともなく呻き声を上げている。
ほら、今、ぴくりと脚の爪が動いた。
それは見えない糸を結び付けられたように、痙攣して、命を吹き込まれ、
“ア、ア……”
操り人形のように、吊り上げられる。
翻って、俺を未だに立ち向かわせる糸とは、何だろうか。
誰の力によって、俺は生かされているのだろう。
そんな神様など、いやしないのに。
俺は呼応するように、立ち上がるのだ。
“終わりに…しよう……”
それぞれが、今となっては朽ちた木の枝よりも脆い四肢を突っ張って、立ち上がろうと藻掻く。
俺達は、全身に残された力を、狼の風貌を保つ為だけに使い果たそうとしていたのだ。
慎重な立ち振る舞いに見えても、その実、死体に鞭打っているだけに過ぎない。
今は、間で尻をぺたんとつけて座っている彼の方が、素早く大狼を翻弄できるだろう。
ばっしゃーん…
“……っ!!”
“……ッ!!”
お互いに同じタイミングで、前脚を折って崩れた。
そして、それが相手の付け入る隙であることを十分に本能として理解していたから、
直後に構えの姿勢を取り、逆に反撃の好機として利用してやろうと眼光を鋭くする。
そして、相手に追撃の気迫を感じられずに警戒を緩めてしまう甘さまで一緒だった。
だが、そんな中でも、立ち上がるのは俺が一歩だけ早かった。
Siriusほどでは無いにしろ、俺自身も、あの慈悲によって一命を取り留めていたのだ。
死体よりかは、幾らか滑らかにギアが繋がる。
“う゛ぅ……?”
果たして、そうだろうか。
もう、到底俺は、この世界で生きては行けそうにない。
つい先まで、繋ぎ合わされていた俺とは、母なるGarmの落とし仔であるとさえ思えた。
“ヴ……グゥ…”
Garmの砕けた顔面に、僅かな焦りが滲む。
身体が言うことを聞かない様は、悪夢を見ているように違いない。
身体の至る箇所がひくひくと痙攣している。動きはするのだが、一切思うようにいかず、統制が取れていない。
後は……後は、お前の元へ、辿りつけさえ、すれば…
ぼたたっ…
ざぱぁっ…
額に開いた穴に溜まってた水が零れ落ちる。
気持ちの良い脱落だった、膿が独りでに這い出て行くような。
“……?”
それと同時に、耐え難い立ち眩みが俺を襲った。
キイィィーーーーン……
強烈な耳鳴りに、Siriusの鳴き声さえも聞こえなくなる。
目の前の景色が、俄雨を受けた水面のように歪む。
ああ、これは、いけない。
堪えろ、春に抗う寒気のように、すぐ通りすぎる。
きつく目を瞑って俯き、自分が四肢を突っ張って立ち尽くす姿を想像した。
“……。”
瞼の裏側には、都合の良い景色が映っている。
誰かが、俺の顔から流れ出る命を塞ごうと。
必死に泣き叫びながら、鼻面を抱きしめてくれている。
「Fenrir……」
そんな、春の一場面に。
俺は驚いて、顔を上げてしまう。
“……!!”
違う。
確かに、聞こえた気がしたけれど。あいつじゃあ無かった。
目の前には、くしゃくしゃに歪められたGarmの顔面が迫っていたのだ。
無表情で、唸り声の一つも上げやしないから、俺は身動きもとらずに、彼が歩み寄って来るのを待ち惚けていたのだ。
グチャッ……
肉片に、刃物が突き立てられるような音がするも、身体にはその感触がない。
代わりに、内側から重低音の耳鳴りが響く。
ぶぅん、ぶぅぅん………
今度は鮮明な、フラッシュ・バックだった。
誰かが、俺の鼻面に抱き着いて、泣いている。
「…rir!!Fenrirっ……!!」
誰も、俺にそんなことしてくれたこと、無かったのに。
どうしてか、幸せな記憶が死の淵にこびり付く。
“あ、あぁっ……”
強烈な白光が収まると、彼はそこから微動だにせず、立ち尽くしていた。
奥深くへ埋まってしまった瞳が、穴の開く程、俺の背後を見透かしている。
“Garm……。”
お前には、どんな幸せな景色が、見えているのだ。
“……。”
一歩、距離を詰めるだけで、全身を生暖かい眠気が襲う。
彼の頬を、俺のそれが掠めた所で、口を開いて牙を突き立てた。
噛み応えが、全くと言って良いほど無かったけれど。
渾身の力を込めて首を振ると、糸を引いて肉塊が剥がされる。
それなのに、Garmは叫び声の一つだって、上げやしない。
分かっていないのだ。
ただ、今度は自分の番であるということだけを、感じて。
Garmは再び動き出せるようになるまで固まってしまった俺の毛皮に、同じように牙を突き立て、
“………っ”
引き裂いた。
次に現れた情景は。
Teusじゃなかった。
食べられかけのSiriusが、私を喰い返してくれている。
噛みついて離さない牙の感触は無かったけれど、
ぞくぞくとしたのだ。
ああ、このまま。
このまま、倒れてくれないかなあ、俺。
“ウゥゥゥゥゥッ……”
弱くなりたい。
今、この瞬間だけは、どんな狼よりも、弱く。
俺は、この狼に、負けたい。
“……。”
次は、俺が喰い返す番だった。
だが、動かなかった。
連続して、Garmにその機会を、受け渡し、
一歩、一歩と退いていく。
しかし、到頭、Garmの動きが止まった。
なんだよ。もう、あと一撃なのに。
どうして、その一発が、繰り出せない。
早くしてくれ。
そうでないと、俺の番になってしまうから。
これは、俺が勝って良いような、闘いでは無いのだ。
それはお前が、背負っている群れの仲間たちが、一番お前に教えてくれている筈だ。
違うか?
“耐えて……くれ、よ……”
次こそは、お前が俺をなぎ倒してくれると信じている。
“う゛、ぅぅ……”
これが、最期だ。
そうしたら、真っ先にあの仔のこと、泣き止ませてくれよな。
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ようやく倒れたことに気がづいたのは、左半分の視界が、浅瀬の淀みに包まれてからだ。
“ェン……リルゥ……。”
片眼で水上の景色を見上げると、何が降って来るのが分かる。
最期まで立っていたのは、俺じゃあ無かった。
ああ、勝ったんだな。お前。
よくやったよ。
俺の、負けだ。
今度こそ、今度こそGarmの前脚に、脳天を潰され、止めを刺される。
そう容易く観念できたのは、自分にもはや痛覚が残されていない確信が故だった。
そして後ろ支えとなる期待とは、Garmはもう、過って生まれてしまった俺に、なりふり構わず無抵抗な死を与えてくれることだ。
“……?”
“Ga…rm?”
ひょっとして、もう、終わってしまっていたか?
その瞬間でさえ、意識されなかったが。
“……。”
いいや、違う。
俺に十字に折り重なるようにして、空っぽのGarmが倒れている。
温かい。
まるで、一緒に昼寝を誘い合う仲間に出会えた気分だ。
何だ、地獄も存外、悪くは無いのだな。
……貴方が仰った、通りなのですね。