186. 希望の河の底攫い
186. Van River Trawler
“……”
腐乱死体に群がる蟲の音を聞いているようだ。
羽音が、耳の中でぶーんとなり続けている。
着水の瞬間を、あまり覚えていない。
怪物に脳天を殴られるのとは比にならない程の、衝撃だったはずなのに。
だったら、酷い後悔が募る。
何故、自らの命を絶つ手段として、投身を選ぼうと考えなかったのだろう。
死を確約されて、それでいて呆気が無かった。
…何のことは無い。
そう殺して貰えるはずだと信じて疑わなかったから、
俺はあの牙に首元を撫でてもらうことに固執し、苦しんで来たのだ。
従って、望ましい死では無いが。
構わないさ。
あの仔を、救えさえすれば。
身体の感覚が無い。
それはつまり、俺にようやく、自責の念にもだえ苦しむ為の時間が与えられたことを意味すると思った。
いつぶりだろう。だいぶ、一匹で洞穴の奥底に引きこもり、目を瞑って考えに耽ることをしていない。
あいつが来てからだ。そんなに長く経つか。
後ろ向きな時間が、自分には必要なんだと思っていたし。そうしなくては、俺はただの怪物で。
そうならないための、ほんの少しの弁明として、自らの精神を高めているふりをしていたかった。
掘り下げて考え抜くことを諦めては、答えの出ない問いに一生毛皮の裏を蝕まれ続けるような気がしていたから。
だから務めて、そうした時間を取ろうとして来たけれど。
この縄張りを踏破せんと試みる親友たちは、決まってその微睡みを妨げるのだ。
背中に与えられた翼を羨むように。
耳に、瞼があったなら。
俺はこうしてきつく目を瞑る代わりに、
前脚で不器用に頭を抱える真似をせずに済む。
でもそれは、野生を失った安眠を求めていることを意味するから。
狼であることに、不平不満を垂れるなど論外だよなと自らに言い聞かせ、
仕方なく、狸寝入りを諦めるのだろうなあ。
……どれ、目を醒ましてやろうじゃないか。
Garmの奴、きっとカンカンに怒っているだろうな。
結局、彼が考え得る中で、最も嫌がることをしてしまったのだから。
今頃奴は、涎を垂らして牙を剥き、狂犬のように唸り声を上げて目を血走らせているだろう。
胸がすくな。
俺の姿を認めるなり、激昂に我を忘れ、激しく罵ることしかできまい。
何故、此処に来やがった。と。
俺の一部として死んだら、こうなってしまうと、どうしてわからない。
もう少し、もう少しで、追放できるはずだったのに…!!
腹を見せて転がり、心を尽くして謝ることをしたい。
それが、縄張りへと迷い込んだ一匹狼が見せる、精いっぱいの誠意だ。
けれど、やっぱり信じている。
あれだけは、あの勇気だけは。俺の意志によって、為されたことでは無い。
そうだな?
我が、狼よ。
此処は…
そう、Hellheimだ。
誰に最初に、起こして貰えるのだろうかと、少し楽しみだった。
こう言っては何だが、Garmは俺が目を醒ますのを辛抱強く待っていられない気がしていたから。絶対にあいつではない。
別の、好奇心に屈した狼が、俺の臭いを嗅ごうと鼻先を近づけるのに気が付くような、そんな平和な覚醒を地獄への入門として体験する。
或いは、水先案内人みたいな人物に、出会えるんじゃないかとも思った。
そいつは、触れるだけで、相手が体験した直前の死を、視覚的に追体験できる能力を持っていても良いだろう。
今まで、数えきれないほどの死に立ち会って来た点で、死神に劣らないだろう。
俺の毛皮に恐る恐る手を触れた時、憂いを帯びて仮面のように固まった表情を崩さぬよう努めつつも、
立ち会った死に困惑を隠せずにいるのでは無いか。
なんて、想像していたものだから。
Teusから、この世界の死生観を知らされる前から、ずっと。
“……?”
だから、その覚醒は、俺の期待に反していた。
垣間見た夢から、今度こそ目覚めた時、
俺は毛皮に纏わりつく、不快に濡れた感覚に、懐かしい死線の峠を見た気がしたのだ。
ザアァァー……ザザァ……
不快な羽音に思われたのは、耳の中でじゃぶじゃぶと波打つ水の音だと分かった。
揺らぐ俺の半身が、溶けたばかりの霜のように冷たい濁流に、浸されている。
“そう…か。”
俺は、川下へと成す術もなく流される途上で、膨れ上がって浮いた、水死体なのだ。
聞いてなかったな。
往生際の身体を、死後の世界まで引きずることになるだなんて。
でもよく考えたら、今まで俺が屠って来たヘルヘイムの先兵たちも、身体の多くを欠損しながら、ぎこちない動きでTeusに迫って来たっけ。
何も理不尽な話ではなさそうだ。
だが、耳にこびり付いて離れない、ヴァン川の濁流は何だ?
戦利品として持ち帰られた海辺の巻貝にでも、なった気分だった。
俺は、その世界では潰れた肉塊となっている筈なのに。
誰かが咽び泣く声のように、それが頭の中で鳴り止まない。
これが、未練そのものであると。
そのように悟ったところで、意識は途絶えた。
堪らないな。
何だか、春の陽だまりに魘されている気分だな。
目覚めたいのに、瞼が開かない。
眠りたいのに、浅瀬で寝付けない。
“うわあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……ん……”
“びぃやああぁぁ……うああああ……”
そんな、半生半死の夢の中で、
Siriusが、わんわんと哭いているのだけが、聞こえて来るのだ。




