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181. 恵まれた最期

181. Count your blessings


“俺タチガ飛ビ込ミ自殺デ命ヲ堕トスマデニハ、若干ノ猶予ガアル…”


そうだな。助かる道は、もう残されていないようだ。

このまま俺たちは、光さえも届かない奈落に吸い込まれて行く。

頑丈な肉体を纏った身体が、着水と同時にばらばらに砕け散る前に、

毛皮を猛スピードで掠める爆風で、気絶してしまいたいものだ。


“ソウダナ。ソウデキタナラ、苦シマズニ済ム。”


“ダガ…”


つぷっ…ずず、ずず…


“ぎゃああああああっっ!?”


Garmは俺の鳩尾あたりに折れた直剣を突き立てると、それを首が曲がる限界まで縦に引っ張り、腹を掻っ捌いた。


お返しだ、と受け入れるには余りにも割に合わなかった。

狼を愛し、神々を導いてきた英雄の大剣や、あらゆる試練から群れを守り抜いてきた狼の牙爪であれば、

その切れ味は俺に、切腹という感触を与えなかっただろう。

でも、俺が死力を尽くして抗い折ったその切っ先は、欠けてしまった俺の犬歯のように不器用だったのだ。


“ソノ前ニ必ズ、殺シテヤル。”


“あ゛あ゛っ……あ゛あ゛あ゛あ゛――――っ!!!!”


“俺ハ貴様ヲ、藁ノ上ニハ寝カセナイ。”


“フッフッフ…我慢シロ、地獄ヘ真ッ逆サマニ墜チテイクオ前ヲ、楽園ヘト送リ届ケテヤッテイルダケダ。”


俺はこのまま、最後まで正気を保って、ヴァン川に飛び込むつもりだ。

ばらばらの肉片に逆戻りするのは残念だが、それもまたつなぎ合わせれば良い。

藁の上で眠る限り、俺はオ嬢の最強の牙であり続けるのだからな。”


“あ゛あ゛っ……あ゛う゛う゛っ…あ゛あ゛、あ゛……”


破く、そうだ。

びりびりと、素手で毛皮を破いているのに近い。

開いて、ぎゅっと、中に閉じ込められたそいつを引き寄せる。


“―――――っ!!!!”


フラッシュバックが、目の前の情景を攫った。

思い出されたのは、これは…赤ずきんとおばあちゃんの代わりに石を詰めようとする猟師の挿絵だ。


自分にとって、それは寓話というより寧ろ、教訓であったと記憶していた。

食事の後に、無警戒に眠ってはならない。

この森には、決して誰も迷い込んだりなどしない。そんな甘い考えは、あいつによって見事に打ち砕かれた。

獲物を喰らうときは、生きたまま丸呑みにしてはならない。

人間には、まだ摘出できるかも知れないなどと、狂気じみた思考を有する者もいるのだから。


“サァ、全部ブチマケチマエェッ!!”


“……”


でも、外れなんだ。

俺の腹の中には、お前のように抱えていたものなど何もない。


“……ああ…”


そう思ったが、当然と言うべきか。


ガクンと力が抜け、全身の脱力と共に、便意のように解き放たれる。

腸がぷるるんと溢れ、落下の強風で元気に踊り跳ねる姿は、俺に歪んだ出産の喜びを倒錯させたのだ。


ベチャベチャッ…ブチュ…!


“ウゥ…!”


だが実際、俺の意志を受け継いでいると言っても、嘘では無いだろう。

鮮やかに飛び散った肉片と返り血は、乱雑な上昇気流によって、凶刃の与え手に絶好の眼晦ましを喰らわせたのだ。


Garmは僅かに目を細め、追撃の牙を緩める。

そして俺は、奇跡的に視界を塗りつぶす内臓の飛散を免れた。


狼の毛皮の仮面を、被っていたのだ。

まだ冬毛の抜けきらない艶やかな毛皮が、盾になってくれた。


“Sirius……”


可哀そうに。今すぐにでも、舌で舐めとって、奇麗に毛繕いをしたいと申し出たい。

Garmに尻尾を向けて張り付いて、そのまま張り付いてくれ。

見たら、卒倒してしまうだろうな。

獲物を日ごろから、同じようにして食い散らかしていたとしても、同胞が同じ目に遭わされているのを目の当たりにするなど、到底耐えられるものではない。


“ふぇ…ふぇんりるさん……”


…こんな惨劇に、お前を送り込むなんて、正気の沙汰じゃない。


“……”


ごめん。今は震えるお前の名前を呼んで、安心させてやるべきだったよな。

でも、俺は元からぶっきらぼうで、無骨だ。

お前の前では、出来る限り明るく務めていようとしていただけで。

本来は、これくらい、辛気臭い一匹狼だった。


そんな自分を、過った世界へと引きずり出したあいつが憎い。


この期に及んで腹が立って、仕方が無いのだ。


お前はこいつのことが、大切なんじゃないのか?

死の淵に再び立たせることになると、分っていたはずだ。

なのにどうして、俺の元に寄越した。


もう一度、こいつが死に逝く様を見せつけられるなんて。


“やだ…嫌だぁっ…”


“いやだあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――っ!!”


お前だけは。

お前だけは…なんとしてでも。


ぐいとその直剣を腹の上で捩じり回され、挿絵をくしゃくしゃにしたような表情の上でお前が泣き叫ぶのだけは、耐えられそうにないんだ。




“大丈夫、Sirius。”


俺は風前の灯に鼻先を近づけ、微笑んだ。


“お前は、お前は父親から、立派な翼を授かっているんだ。”


“きっと飛べる。”




――――――――――――――――――――――




“さあ……もう、十分だろ。”


待ちわびた瞬間だったのだと思う。

自分の内に巣食った半身も含めて、憎くて堪らなかったんだ。


“オ得意ノ火炎放射ハドウシタ?モウガス欠カ?アアッ!?”


これだけ接近しても、隠し玉を披露して来ない俺に、到頭完全な勝利を確信してしまったらしい。

そいつの死に際を前に、いよいよ盛りを迎えたGarmは、到頭血の臭いに酔わされ、長い長い(はらわた)を引きずり出しては引き千切るような残虐さを披露していた。


“ああ?あぁ……”


そのどれもに、何故か間接的な、鈍い痛みしか感じられない。

痛みを感じる毛皮の裏側が、もう剥がれかかっているんじゃないかな。



“マダマダァッ!!コンナモンジャア、俺ノ怒リハ収マラネエッ!!谷底ガ近ヅイテ来ルノハ、チャント俺ガ見守ッテヤルカラ、オ前ハ安心シテ苦シンデ死n……”



その姿を直視するのに嫌気が刺したとか、水を差してやろうという気は微塵も無かった。

でも俺は、こいつにとって、一番致命的な言葉を、意図せず吐き出してしまったのだと思う。



俺は……




“殺してくれ。”


こうして、諦めたのだと思う。


“……?”


“殺してくれ。”


Garmがぎょっとして眼を見開き、ピタリと空中で静止する。




“ナニィ……?”




“己の限界については、知悉しているつもりだ。”


“もう、死ぬだろう。”


“ナッ……ニヲッ…?”



存外に、Garmの身体は俺と同じくらい無抵抗に動いた。

面喰って狼狽えるばかりの彼に自らの四肢を絡ませ、厚く抱擁を交わす。


“ヤメロッ…何ノ真似ダッ…?”


まるで両腕を回すように、自分の前足を肩の辺りの毛皮に沿わせ、

胸元を感じられるよう、ぴたりと引き寄せる。


“……何でもないさ。”


それが狼同士のハグとは程遠いとは、分っていた。


かと言って、人間の真似事だとするには、滑稽で醜いのも知っている。


だが皮肉なことに、俺は今までで、最も人間らしく振舞おうと身体を操っているのだと思えた。


“フザケルナッ…オ前ガ今此処デ諦メチマッタラ、俺ノ計画ガ台無シニッ…”



“そう言うと思っていた。”


“ッ…!?”


拷問に耽っていた自分を恥じると良い。

お前もまた、狩りを失敗の無い遊びと捉えることを許された、怪物なのだからな。


“ぐるるぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!”


“シマッt……”


唸り声で俺が牙を剥き、最後の抵抗を見せたのを敏感に感じ取ったGarmは、正しく反応してしまう。




口に咥えていた直剣の切っ先を、俺の顔面へと向けたのだ。


そして、僅かに躊躇する。


眉間に張り付いて震えている、この若狼さえいなければ、

ぽっかり開いた額の穴に、もう一度この大剣を押し込んでやることが出来たのに。

気付いていたし、自覚もあったのだろう。

そいつのことが、やっぱり邪魔で仕方が無かったのだ。


“ウッ……ウゥゥゥッッ……”


だから俺は、やはり様式美として。

その隙を、自ら望んだ死へと変えるのだ。







“Garm、お願いがある。”




“俺達の、命が…潰えた時に、”




“この狼を、”




“お前の群れのうちの一匹に、向かえてやって欲しい。”




“…頼む。”







それを遺言として、あるいは辞世の句として。




俺は、首元の毛皮を晒し、


だらりと頭を天へ垂れた。




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