180. 塵へのしがみつき
180. Cling to Dust
“うあ゛あ゛あ゛あ゛っ…!!ぎゃああああああっっ…!!”
“……ッ!?”
そう。まだ、終わっていないのだ。
耳をもぎ取るような悲鳴が、世界を揺るがす。
Siriusは眼をきつく瞑り、Garmは対照的に見開く。
“オ、オ前…?”
自分と同じように、誰かの幸せの為に生きてみたいなどと。
死の淵で暴れまわる怪物がもう一匹。
“いだいっ…いだいよぉ…うぁぁ……”
俺は泣きながら四肢を伸ばし、立ち上がらんと自らの額を大剣の刀身へと深く押し込む。
“待ってろ…”
“い、ま…行く…か…ら…!!”
大粒の涙を、膜の張った眼球から流しながら、目の前の狼がそうしたよりも早く立ち直ろうと、あり得ない行動に出る。
俺だって、やってやる。
ああ。そんなことまで、してしまえるとも。
Garm、お前がやったようにな。
“グルルルルゥゥゥゥッ……!!”
俺は傷口を広げるようにして顔をぐいと捩じると、刀身に無理な角度で噛みついたのだ。
“ううぅっ…う゛う゛ぅぅぅぅっ……!!”
ガンッ…ガンッ…
ガリィッ…バキィ…
“ウ、アア……”
余りにも酷い有様に、見るに堪えまい。
右の下顎犬歯が、ぼろりと零れる。
狼の牙が、刃に敗れて折れたのだ。
罠に嵌められた獲物が足掻くようだ。
どうせ、惨たらしく殺されるのなら。
最後の抵抗は、致命傷すら、厭うまい。
そうだろう?
ベキッ…バキッ…ガキンッ…!!
“ヨ、ヨセッ…止メロ、Fenrirッ…!!”
“あんぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っーーーーーっっ!!!!”
バリィィン……
“あ゛ぁっ…はぁっ…はぁっ…”
“あぁ…うぅ…”
ぽっかりと空いた穴を埋めてくれる百足の一匹も、
涙を流して癒しを施そうとする女神も、此処には居ない。
眼をひん剥いて、壁に張り付いているのがやっとだ。
雨でずっしりと重くなった毛皮を震わせる気力もない。
こんなに自分のことを痛めつけたのは、初めてかも知れないな。
でも、まだだ。
まだ終わっていない。
朦朧とする意識の中で、自由になった頭を擡げて、大剣の持ち手を仰ぐ。
“ウ、アア…!?”
亀裂は瞬く間に柄へと走り、崩落を始めていたのだ。
Garmは唯一の足場を失い、成す術もなく尻尾から落下していく。
手遅れだ。彼がその姿勢から前脚を此方へ伸ばしたところで、もう岩壁に取り付くことは叶わないだろう。
“シリウスッ……!”
あいつだけでも、まだ間に合うか。
口元から離され、谷底へと追放されるはずだったSiriusが大狼と共に空中を泳いでいるのが目に映った。
恐怖に引き攣ったGarmとは対照的に、まだ自分の身に何が起きているのかを理解しかねているように見えたが、視線だけはまっすぐに、俺を見据えて離さずにいた。
“フェ…リルさんっ…”
ああ、お前は諦めずにいてくれたんだな。
今すぐにでも、四肢を蹴って岩肌から離脱し、空中で身体を捻ってお前へと前脚を伸ばしたい衝動に駆られる。
だがどうやら、Teusを背中に乗せて走り回る日々が、長すぎたらしい。
救出劇は、俺にとっては大した機転を利かせずに済んだのだ。
幸か不幸か、あの神様と成熟した狼の体格は、大して変わらない。
あいつと出会って間もない頃を思い出す。
人間に自分の牙を近づけることを極度に嫌っていた俺にとって、崖の狭間を間抜けに急降下するお前を口でキャッチするなんて、論外だったよなあ。
だから、崖の壁面と逆さに相対するようにして離れていくお前に対して、俺はこうしたんだ。
“ウグァァッ…!!”
俺は喰い込ませていた前脚の爪を外すと、迷わず身を翻し、体の天地をスイッチさせた。
グリップはまだ残っている。Siriusの落下よりも素早く岩肌を垂直に駆け降りると、再び天の方へ向き直る。
“来…い…!!”
そして両前脚をふわりと浮かせ、Siriusを受け止めにかかった。
後ろ脚だけが引っかかった状態で、ゆっくりと仰向けに倒れていく。
急降下する影を見て思わず、ああ、可愛いと思った。
モモンガのように四肢を万歳で広げる様子を下から眺めると、この期に及んでちょっと笑ってしまう。
だが、それで良い。
大丈夫だ、できるな?
“わうぅっ…!?”
果たしてSiriusは俺の鼻面に殆どぶつかるようにして受け止められた。
視界を遮られることでそれを確かめる、既視感たるや凄まじい。
“……っ!!!!”
傷口をポンと叩かれるだけで、意識が飛びそうなほどの激痛が全身を駆け巡るが、悲鳴を上げたい口の中はもうボロボロだ。噛み殺すしかない。
“くっ…うっ……!”
そのままなんとかほぼ半回転の落下を耐え凌ぎさえすれば、なんとか助かる。
Teusをキャッチした時のように、身をくるりと回転させろ。
壁と正対した瞬間を狙って、右前足の爪を岩肌に向かって突き立てるのだ。
ガリガリッと擦れる音を手掛かりに爪に力を込めれば、自由落下に抗い俺の巨体は大きく減速しはじめるだろう。
イメージはしっかり描けている。
あとはタイミングさえ逃さなければ…
“掴まっていろ…!”
恐る恐る自分のことをのぞき込む、可愛らしい瞳が視界の端に映る。
上出来だ。お前はあの神様と違って、やかましく叫び声を上げないのだな。
あとで帰ったら自慢してやれ。父親にも俺がそう証言して…
ズチャンッ…
“……?”
息が出来なくなるほどの衝撃を腹部に受け、眼玉が弾けそうな内圧を感じる。
口から洩れる鮮血と、どくどくと噴き出す額の粘血が、Siriusの毛皮を汚く染め上げていくのが分かった。
“あ、あ……っ!!”
俺は身を翻すのも忘れ、仰向けの姿勢で硬直したまま落下を再開する。
しかも、ただの落下じゃない。
さっきよりも、地獄に向って景色を早めている。
“シブトイ奴ダ…!!”
“ダガオ陰デ、命拾イシタ…!”
視界の端でニタリと嗤う大狼は、今度こそとどめを刺さんと、
折れた刃の柄を咥え、四肢の爪を腹部に突き立てていたのだ。
“…良かったじゃないか。”
どちらも、救うことが出来たなら。
“アアッ…アリガトウ…!!”