179. いまわの際で
179. Breath in, Breath out. Even though It hurts.
“死ネェッ…ソノママ、死ンデ楽ニナレェッ!!”
“死ンデクレェッ…!!フェンリルゥゥゥゥッ!!”
頭上から降って来る罵声は、勝ち誇った響きを少しも伴ってはいなかった。
もう、この闘いを終わりにしよう。諭すというより、懇願のような、祈りに近い叫びだった。
正直、言われなくてもその通りになりそうだと思った。
今にも気絶して、昇天してしまいそうだ。
口の端からはとめどなく涎が垂れ、雨で薄まった霜の血が顔面の毛皮を染める。
指先が冷たくなり、ぶるぶると全身が痙攣して、
…気持ち悪くて、気持ちよかったのだ。
“ぐうぅっ…う、うぅ…?”
脳が嗾けるままに、眼球の裏側が見えそうになるほど、上方をひん剥く。
すると、白い膜が張られた視界の端に、大剣のもう一端の景色が垣間見えた。
“ハァッ…ハァッ…ハァッ!!”
―あいつだった。
口に咥えていた柄に前脚をかけ、よじ登ったGarmが、子犬のように震えながらも憎々し気に此方を見つめている。
距離にしてみれば、大剣の刃渡りが為すだけの隔たりでしか無かった。
しかしもう、虫の息の獲物を嘲笑う気力はない。
速やかに糧へ死を与える気高ささえも無かった。
ただ、自分の夢を喰い殺そうとする怪物が、このまま息を引き取ってくれるよう、行く末を見守ることしか出来なかったのだと思う。
従って、名誉なことに、自分に対するあらゆる決定権は、俺自身に委ねられていたのだ。
脳が割れる痛みに悶え、四肢をじたばたと暴れさせることを、せずとも良いのだ。
前脚で、額から生える刃が幻覚であることを確かめるような愚行に誘われるようなことも。
そんなうっかりだけで、俺は不運にも額から鼻先までの距離が長い動物に産まれてしまったことを恨むことができる。
叫び声も上げられずに、口がびりびりと縦に切り裂かれていく様を目の当たりにしながら、間抜けにも岩肌から転げ落ちていく最期を迎えられる。
それが怖くて堪らなくて、このまま俺が息絶えるまで四肢の力を抜かず、爪を岩肌に喰い込ませたままの状態を保つことだって、生にしがみつきたがる俺に相応しいような、まあ悪くない選択のように思える。
だが、此処まで来たなら。
死に方は概ねGarmが望んだ筋書から逸れることにはならないのだ。
だらりと四肢を垂らし、まるで狩られた最高のトロフィーのように。
吊り下げられて息絶える。
つまりはー…
“死ねる…の、か…?”
“闘いの、中…で…”
そう、この死は、藁の上での死では無い。
俺は最期まで、諦めなかった。
狼として最大の好敵手であるGarmに、一切首筋の毛皮を晒すことをしなかったのだ。
それを意識するあまりに、俺はやっぱり ’低く構え’ て。
翼を捥いだはずの相手から、脳天へ串刺しの一撃を貰っているのだがな。
でも、今思うと、何となくこうなると分かっていたような気もしてくる。
脳が必死に一生を肯定しようと、帳尻を合わせた錯覚を見せてくれているだけなのかもしれないが。
俺は、貴方の歩いた…オーロラの道を、歩んでみたいと
常々、希っていたのだ。
あの雨雲の向こうに、それは敷かれているのですか?
楽園へと続く、儚い微光の道が。
地上からこうして見上げるだけで、想像さえもして来なかった。
其処にはどのような景色が、広がっているのだろう。
ずっと考えてきました。
貴方がどんな心持ちで、あの眩しい夜空を歩いたのか。
そこでは、私が貴方と思い定めた、天狼の星が、いつもより近くで輝いておられますか。
雪はきっと、その道をすり抜けて地上に落ちてしまうから、私にはそれが少しばかり寂しく思えます。
…でも。
透き通った、光さす道だからこそ。
見上げて思いを馳せるのと同じように、見降ろして沈み耽るのでしょう。
分かっていますよ。
せいぜい、踏み外さぬよう、気を確かに持てと仰るのですね。
でないと、貴方と同じ轍を踏む羽目になると。
“いやだぁぁぁぁぁーーーーっっ!!”
“噓だよっ…うぞだあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――っっ!!”
“フェンリルさんっ…!死んじゃ嫌だぁっ…!!”
ねえ、Sirius?
“オイ…小僧!!イツマデソコニ引ッ付イテイルツモリダッ!”
良かった…お前、無事だったんだな。
串刺しにされたのが俺の額で助かった、まさに紙一重だったという訳だ。
或いは、Garmの斬撃は、お前に掠りもしないよう、正確に狙い澄まされていたのかも知れない。
人間の利器に蹂躙され尽くした彼が、まさかこんな才能を宿していようとはな。
Teusのことが気に喰わないお前にとっては、この上ない皮肉だろうが。
“クソガッ…右脚諸トモ、落ッコチレバ良カッタモノヲ…!!”
“絶対に離すもんかっ…!!よくも…よくもフェンリルさんをっっ…!!”
“ギャウウゥッッ!?何シヤガルテメェェェッッ…!!”
機能停止間際の頭で、ぼーっと聞いていたらこれだ。
自ら切除したその断面に、果敢に噛みつく姿が想像できて、思わず微笑む。
小さい頃のお前の話を、Skaと一緒に語らいたいものだ。
お前は兄弟と遊ぶことも躊躇い、母狼に引っ付いていたぞと。
顔を真っ赤にして、否定するいじらしい姿が目に浮かぶようだ。
“コノッ…手コズラセヤガッテ…!!”
“何するんだっ!離せっ…離せぇっ…!!”
“オ望ミ通リニシテヤッテモ良インダゼ、全ク…威勢ダケハ大シタモンダ。”
遂に首元を咥え上げられたSiriusは、なおも暴れて四肢をじたばたとさせる。
三本脚でどうにかバランスを保っていたGarmにとっては、厄介なことこの上なかっただろう。
“オ前ガ引キ金デコンナ目ニ遭ッテイルンダ。サッサト俺ヲ元居タ場所ヘ帰シヤガレッ!!”
こんな所で、死にかけている場合では無いのだ。
今すぐにでも、ヴァン川の対岸へと戻らなくてはならない。
“そんなこと知らないよっ!僕はフェンリルさんとテーィウさんに、模様を刻んで貰っただけだもん!”
“フザケンナ!オ前ガ連レテ来タンダロウガ…ココガ何処カモ分カンネエノニ、ドウシロッテンダ!”
“ああ、そうさ。させるもんか。お前は絶対に、ヴァナヘイムに、僕らの縄張りに辿りつけないぞ!!”
群れの皆が、繋いだ意志だ。
断ち切れるもんか。
“僕は諦めないっ…!!”
勝ったなんて思うなよ。
諦めるのは、お前の方だ。
喩え地獄の底に突き落とされたって。
僕は必ず、
”フェンリルさんの憧れる狼になるって決めたから。”
“……。”
“……ソウカ。”
“…ソレハ残念ダ。”
Garmは目を瞑り、言い聞かせるように、別れの言葉を吠え声に乗せる。
“……サヨナラ。”
“シリウス。”
“……”
不覚にも、じわりと眼が痛んだ。
きっと、錆の混じった雨水が染みたんだろう。
“ふふっ……”
止まりかけの心臓が、一度大きく脈を打つ。
詰まりかけの霜の血を運んで、帰って来た鼓動は。
更に勢いを増して、もう一度全身を駆け巡った。
出来るか?俺に、もう一度。
あいつの力を借りずに、幸運とやらを毛皮に纏うことが。
あの青い炎の端を、毛皮の先に宿すことが。
Siriusみたいに。
“はぁっ……はぁっ…”
“あぁっ……っはぁっ…はぁっ…ああっっ…!!
そうだ。それを、呼吸に乗せて、声に変えろ。
“あ゛あ゛あ゛あ゛っ…あ゛あ゛っ…あ゛あ゛あ゛ぁっ!!”
そうだ。それで良い。
“ガルムゥゥゥゥゥゥゥッッーーーーーーっ!!”
泣き顔だって、構わない。
深く、息を吸って。
そして、吐き切るんだ。
喩え、痛くて堪らなくても。