177. 泣いて終わり
177. I always knew this was going to end in tears
もう、引き下がる事なんて出来ない。
大剣の刀身は長く、柄にぶら下がった俺達を岩壁から遠く突き放していた。
俺をこの世に繋ぎ止める命綱。
それは今にも千切れそうな、頼りないお前の右脚だけだ。
“離セェッーーー!!離シテクレェェェーーーっ!!”
“ああ、いいぜ。地獄で先に、待っておいてやるよ。”
自らこの口を開けば、それは投身自殺と変わりないからな。
お前は嫌でも、俺と一緒に、ヘルヘイムで過ごすことになるのさ。
今みたいに、延々とじゃれ合うとしようじゃないか。
“フッ、フザケンナ!オ前ガオ嬢ト同ジ世界デ暮ラスナンテ、想像シタダケデ吐キ気ガスルッ…!!”
“だったら、もう覚悟を決めたらどうなんだ?”
残されたのは、2つの道しかない。
その大剣を咥えて、ぼろぼろの毛皮になるまで俺と戦い続けるか。
もう全部諦めて、俺と一緒に美しい剥製の繭を巣穴の隣に張り付けるかだ。
“嫌ダッ…ソンナノッ…?ウギャアァァァッ!?”
俺が喰い込ませた牙は、いとも容易く脛骨を噛み砕く。
元より、お前達から吹っ掛けた喧嘩だろう?
それなのに存外、情けない叫び声を上げるんだな。
狂ったことを宣うようだが、脚の一本を失うぐらい、お前は何とも思わないんじゃないかと思っていたよ。
どうせ、またお前は同胞の狼の脚を縫い合わせ、完全な身体を取り戻すんだろう。
なのに何故、 ‘そいつ’ を切り離すことをそんなに惜しむ。
確かに、偉大な犠牲だ。
その魂は、俺を闘いの中で屠ろうとしないだろう。
お前が望んだ、楽園への、追放を拒む意志だ。
手放してしまえば良い、そんなもの。何の躊躇いも無く。
きっとそれが、お前に残された唯一の勝機であると、心の底では分かっている筈だ。
覚悟も、していただろうに。
それが、どうして今になって。
“イダイィィィーーッ!!チギレルッッ、タズケデェーーッ!!”
それとも何か?
その右後脚だけは、失いたくないと。
お前の中のそいつじゃなく、
お前自身が、叫んでいるのか?
そんな狼が、まだ…
“フェンリ゛ルウ゛ウ゛ウ゛ゥゥゥゥゥゥッッッーーーーー!!”
眼前の尻尾さえ霞む程の豪雨の中、半ば発狂したGarmの慟哭が耳を劈く。
ブチチッ…ブツンッ、ブツツンッ…
頑丈な寄り縄が徐々に千切れていくように、
肉の裂ける感触が、牙に伝わる。
“……さん…ンリルさんっ……”
それはまるで吹雪の中、勇敢な仔狼が孤独に泣き叫ぶようで。
強烈に胸を焦がす、あの懸命な眼差しが脳裏で蕩けて。
“Garm…?”
俺を挫こうと、微笑むのだ。
“……。”
“ごめんな……。”
縄を握る手がずるずると滑り落ちるように、
牙が腐った肉から抜け落ちて行く。
きつく目を瞑って、最後の最後まで、抗っていたが、
“お前だけ、は…”
決して生半可な覚悟で犯した過ちなどでは無かったが。
この脚だけは、噛み切れない。
お前の右後脚だけは。
“俺には無理だ。”
ブツツンッ……
自分が望んだ結末を、俺は諦めてしまった。
“Fenrirさんっ…は、はやくっ!!”
“……?”
その直後のことだ。
落下の瞬間を見届けてやる気力も無かったのだが。
その名を冠する狼が叫ぶ声と、
飛び込んで来たその光景に、我が目を疑う。
“な、にして、る……?”
俺の口先で、SiriusがGarmの千切れかけた右後脚を抱きかかえていたのだ。
そんな所にいたら危ない、今すぐ降りてこい。
なんて台詞が出るならば、それは親狼が、木の枝に跨って尾を振る仔狼を見上げて、狼狽えるような心境だ。
Skaなら、そわそわと前脚を交互に踏む動作で、それを体現して見せただろう。
だが、Siriusがやろうとしていることは、俺に保護者としての意識を完全に押しやってしまっていたのだ。
“早く…早く縛ってくださいっ…!”
“……!?”
“バ、バカッ…ヤメロオォォーッ!!”
その言葉の意味を理解するより先に、Garmが有らん限りの声を上げて吠える。
“お前…まさか……”
そう。
繋ぎ止めようとしているのだ。
無論、彼が幾ら頑張ったところで、俺が口に咥えているGarmの右後脚が千切れないようにすることなど出来ない。
これはGarmの肩を持ったところで、僅か数秒の無駄な足掻きに違いないのだ。
しかし、Siriusは、正しく理解している。
自らに与えられた、最期の役割とでも言うべきか。
右後脚に俺が刻んだ、運命を。
仔狼ながらに、しかと悟っていたのだ。
自分が結びつける、二匹の大狼の名を。
彼らを微睡みに導くために。
あのお人好しの神様が、上書きしたことによって発動を妨げられた、
自らを縛り上げるルーン文字を。
今ここで、再び唱えよと言っているのだ。
“僕が最後の一匹なんですっ…!!”
“みんなっ…みんな群れの為に、森へと走って行っちゃったんだ…!!”
“やめろ…”
“でも僕は…僕はみんなみたいに、速く走れないからぁっ…うあぁっ…あぁっ…うああぁぁ……”
Siriusは、Garmにそっくりのしゃくり上げをする。
あいつに子供っぽい無邪気さがあることの理由を、俺はようやく理解できたような気がした。
“でも、でもっ……僕だって…”
“やめてくれっ…”
Teusが刻み込んだ文字の下から、淡い光が漏れ出している。
それは、ほんの数分前まで、俺が計画し、望んだ挙動そのものだった。
俺とGarmを、二度と身動きが取れなくなるように縛り上げる為の、封印の言葉が、
“僕だって、貴方の…フェンリルさんの役に立ちたいんだぁぁーーーっっ!!”
唱え手によって、暴発する。
“シリウスゥゥゥゥッーーーーーーッッッ!!”
“あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛―――――っっ!!”
“ウア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ーーーーーーーーッッッ!!”
全員の叫び声が合わさり、耳が弾け飛ぶような衝撃と共に、
あらゆる感覚は、途切れた。
突如として、全身を襲う、言い知れぬ浮遊感。
それはまるで、胎児のような、安心があったのだ。