176. 道連れに
176. And I know I said you could drag me through hell
本能に抗って防御の構えを取ることが出来たことには我ながら驚いた。
風に吹き飛ばされまいと、夏の虫がそうするように、頭を天に向けて岩肌に張り付きさえすれば、姿勢は安定する。取り敢えずはどんな衝撃にも耐えられたのだ。
“あ゛っ、あ゛がぁっ…”
ひやりと腹の辺りが冷たくなったが、俺は岩壁から引き剥がされずに済んだのだ。
しかし、Garmが与える残虐な一撃を極度に恐れていた俺は、自分の顔面を逸らすように逃れることを選んでいてもおかしくなかった。
他のどの部位に深い傷を負っても構わないから、もう脳天だけは、やめてくれと。なりふり構わず気づけば身を捩って走り出そうと身体は動いていたのに。
俺は奇跡的に、Siriusをこの一撃から無傷で守りつつ、岩壁からの呆気ない落下を免れていた。
“し、しりうずっ…”
鼻の付け根辺りから止めどなく流れる血を、生暖かい雨が洗い流していく。
口を開いたときの痛みが全くと言って良い程無かったから、これはもう半分取れかかっているのかも知れないな。
でもまだ、俺の毛皮にしがみ付いている感覚は残っている。
先まで右肩の付け根辺りで腹ばいになっていたSiriusは、抱きつき易い首後ろの長い毛皮の中に埋もれていた。
“Fenrirさんっ…ごめんなさぃぃっ…”
彼もまた自分から振り落とされまいと、必死だったのだ。
お前のせいじゃないさ。そう伝えようとするも、顔面に伸し掛かる真っ黒な獣の毛皮のせいで、それどころじゃない。
“ヴゥッ…グルルルルゥゥゥゥッ…!!”
Garmが、俺の鼻面に全体重を乗せて、壁に張り付こうと必死にもがいていたのだ。
向こう見ずも良い所だ。見切り発車の覚悟だったなんて。
俺が今の一発で谷底へ叩き落とされていたら、どうするつもりだったんだ。
“どいつもこいつも、俺にしがみ付きやがって…!!”
頼られることはこの上なく喜ばしいことだが、思わずそんな悪態を吐きたくなるほどだ。
他人のことを言えた義理では無いが、その図体から予想された通り、重い。この上なく重たい。
このままでは、持たない。
とてもじゃないが、額でこいつの全体重を受け止め続けるのは無理だ。
顔を背けることさえ出来な程に毛むくじゃらの尻が全面に広がり、四肢の内の一本でも岩肌から離せば、爪が剥がれてしまいそうだ。
だが一つ分かったことがあるとすれば、Garmは本当に、垂直な壁面を歩くことに苦戦しているということだ。
前脚の爪で壁を掻き毟り、後ろ脚が踏み台となった俺を何度も叩く。
予想した通りだ。
何故かは分からないが、彼は未だ、右後ろ脚の恐怖心を、拭い捨て切れていない。
平面を確保するので精一杯なのだ。
機能の損なわれていない両前足と、左後ろ脚の3点が張る平面に乗ることは出来ても、どうしてもその次の一歩が取れていない。
右脚を少しだけ引っ掛けて、前脚を上に向って伸ばそうとしても、すぐに体重を支えきれなくなって、俺の真上に落下してを繰り返している。
今までは、右脚に掛かる体重を、接地時間を調整することで最小限に抑えて来た。
それこそが、彼にあの異次元の跳躍と予測不能なミス・ステップを齎して来た。
だが彼は今初めて、一瞬さえも誤魔化しが効かない状況に立たされている。
“ヴゥッ…クソガァァァッッッ…!!”
俺を蹴り堕とすことに専念しようとしない辺り、どうやら本当に壁に張り付けない。
あるいは出来ても、そこから一歩も動けない。
これは、まだあるのか…!?
俺は直感に従い、到頭堪え切れなくなった前脚の握力を緩める。
ガリガリッ…ガリ、ガリリリリッ…
“ナニッ…!?”
俺が必死に落下に抗っていたことに気がつかなかったGarmは、急に足場が崩れ始めたことに驚きの声を上げた。
壁に寄りかかった猫のように全身が伸び、後ろ脚はますます壁との一体感を失う。
このまま依存していては、Fenrir諸とも、地獄へと急降下だ。
その焦りが、Garmを遂に羽ばたかせた。
“ウッァァァア゛ア゛ア゛ッッッーーーッ!!”
最後に両方の後ろ脚の肉球をぐいと押し付けると、渾身の力を込めて、より安定した足場へと跳躍を試みたのだ。
ようやく確保された視界の端には、再び大剣の柄に飛び移ろうとモモンガの如く四肢を広げたGarmの姿があった。
“ア゛ッ、ウゥッ…!!”
果たして、決死の脱出撃は成就する。
口だけで大剣の柄を掴み、飛び移った勢いを殺そうと脱力し切ってぶら下がっていた。
“グルルルルゥゥゥゥッ…!!”
“…ッ!?”
巨大な小鳥を送り出して再び自由の身になった俺は、四肢に力を込めなおし、唸り声でSiriusに合図を送ると、一気に崖を駆けあがった。
どうやら俺がそのまま落っこちると思っていたらしい。完全に虚を突かれたGarmは、下半身をバタバタとさせ、慌てて大剣によじ登ろうと試みる。
そうせざるを得ない、という必死さが伝わってきて、見るに堪えないが心を鬼にしなくては。
“今度はこっちの番だっ…!!”
“ヤ、ヤメロォッ…ッ!?”
腹の辺りまでを狭い足場に乗せていたGarmの右後ろ脚目掛けて、垂直にジャンプし、腱の辺りに噛みついた。
“アギャアァァァァッーーーーッ!!”
途端に口の中に、熟れすぎた果実のような食感がじわりと広がり、再び吐き気を催して毛皮が逆立つ。
喉の辺りがヒクヒクと痙攣し、胃袋がぎゅうぅと締め付けられ、口の端からは、苦々しい胃酸が溢れ出る。
覚悟していたことだ。お前に俺はもう、噛みつくことは出来ない。
それでも、口を放す訳には行かなかった。
俺自身はどうでも良いが、何せ偉大な命を背負っているものでね。
足の引っ張り合いと行こうじゃないか。
左の後ろ脚で何度も顔面を蹴られるも、抵抗する代わりに、ますます牙を喰い込ませる。
死んでも、このまま喰らい付いてやるよ。
“アァッ…アァ、アァッ……”
Garmは、脇の下に大剣の柄を挟んだ状態で、情けない呻き声を上げている。
尻尾がこんなに、股の下に隠れて震えていた。
“…さあ、もう限界なんだろ?”
諦めるんだ。
俺と群れ仲間が完成させてしまった大罪を、肯定してくれるんなら。
何故お前は、Teusの肩を持つような真似をするんだ?
怖くなんかないさ。
俺と一緒に、微睡みに墜ちるだけで良い。
楽園も地獄も無い。
初めから、俺たちはいなくなるだけ。
自分のことを少しでも愛してくれたような誰かに、ぽっかりと小さな穴を穿つだけだ。
“嫌ダァァァッーー!!誰ガッお前ナンカト…!!”
“グルルルルゥゥゥゥッ!!”
“ヒギャアアアアアアアアーーーーーッッッ!!”
そんなに、俺のことが嫌いかい?
俺はお前のこと、好きなんだがな。
そうだな、半分ぐらいだけど。
“だったら、やるべきことは、決まっているだろう?”
抜けよ、
その大剣は、お前を安心させる為に、そこに突き刺さっているんじゃないんだ。