172. 天福 3
172. Bliss 3
俺は、どうすれば良かったのだろうな。
本当に、知らなかったのだ。
名誉ある死と、不名誉な死。
鎧の下の死と、藁の上の死。
それらがSirius、貴方へと至る為の、たった一つの分岐点であること。
俺はずっと、何故自らが死を選ぶに至ったのかを子細に語り尽くしたかったけれど。
そのどれもを、尤もらしい理由としてあげるだけの勇気が湧いてこなかった。
俺はずっと、自分がどのように死ぬのだろうと考えて来たけれど。
そのどれもが、苦しんで死ぬことができれば、今の思いが薄れてくれるぐらいにしか思ってこなかった。
言わば、理想を並べ立てるだけの半端者。
そのお陰で、ここまで生き永らえることができた。
十分な、延長戦を享受できたように思うよ。
これから、何も考えずに、ふらりと躓くようにして死ぬのも。
ある種、思った通りなのかもと思っていた。
幸せな奴だと、お前には吐き捨てるように言って欲しいよ。
けれど、そんな俺が、こんな考えに辿り着くとは、思ってもみなかった。
死後の世界の存在を、Siriusという現し身を通して知覚していたにも拘わらず。
それがどのようであるかを克明に描くことを怠った俺は。
ヘルヘイムにいるお前の気持ちを、ちっとも考えて来なかった。
“俺は、死にたい欲求の、その先を行ったのだ。”
Fenrirは、初めて真っ直ぐに此方を見つめて、俺を呼び寄せた本当の意味を伝える。
“二人の子供として……”
“う、産まれて来なければ良かったと……”
表情の一切を崩さないかに思えたが、
“本気で、そう思ったのだ。”
そう言い切って、冷徹や狂気を装えたことに安心したのだろう。
短く息を吐いて、寧ろ穏やかな態度で鼻先を舐めた。
それからSiriusに気を使いながら、強張った肩を震わせる。
堪えきれないのを、見ていられなかった。
遂に、雨が降り始める。
毛皮が左から濡れていくのは、何だか不思議な心地がした。
俺とFenrirが張り付いてる崖肌から、湿気と共に、土の臭いが漂ってくる。
“Garm、お前は間もなく、忘れるだろう。”
忘れる、だと…?
“臭いだ。”
“臭イ…?”
そうだ。
‘名前’ と、言い換えても良い。
それを与えられた狼は、その名で呼ばれることに喜びを得る以上の意味を見出そうとしている。
我が狼、Siriusは、恰もそれが重要ではないように振舞って見せたけれど。
鼻の利かない人間にとっては臭いよりも強固で、確かな手がかりだと俺は思う。
“…ルーン文字ノコト、カ…?”
その通りだ。
お前、多少は識字の造詣があるのだな。
だが、ヴァン神族が綴る文字とは、少し毛色が異なっている。
故に群れに仕掛けた呪縛を解読するには、少なくとも俺と同じだけの時間を、読書に費やさなくてはならないと示唆しておく。
是非とも、参考になる書物の名を羅列したい衝動に駆られるが…今は時間が無いな。
端的に述べるならば、封印したのだ。
ある一匹の狼は、そいつが死んだ後の確立された自我としての狼と共に、
いなかったことになる。
初めからだ。
産まれて来なかった、とは、そういう意味だ。
剥製となった狼に、生前の名残など無い。
“ウ、噓ダ……”
毛皮が剥がれてしまったのだろうか。
鳥肌が百足よりも早く、身体中を駆ける。
猟師が生きたままの動物を造り替えるような。
そんな寒気がした。
“嘘なんかじゃない。
確かに、俄かには信じ難いだろうが、
現に、俺が思い描いた通りになってしまった。
“皆、自分たちが群れの長と認めたあの神様のことを考えた時に、俺にその文字を刻まれることに同意してくれたよ。”
でもそれが、群れの使命を全うすることにもなるのであれば、
俺は手助けをしてやったと言うことも出来ないか?
少なくとも、皆、そういう風に、表向きは思ってくれているんだ。
お前の言葉を借りて良いなら、
彼らは…感染したのだろうな。
“こんな大狼を受け入れてくれた群れ仲間たちは、その名前のせいで…”
“俺の狂った願望を、洩れなく共有させられてしまったのだ。”
“……。”
その微笑みには、混じり気の無い狂気が垣間見えた。
今度こそ本能的に毛皮が逆立ち、傷口たちが居心地を悪そうに疼く。
容易に想像できる。
自らの首を牙で掻き切る時のお前は、そういう表情をして嗤っていたのだな。
“どうだ、Garm。もっと蔑んでも足りないのでは無いか。”
“さっきみたいに、Siriusの口調を真似てくれ。”
“その方が、今の自分には応えて、ちゃんと洗い浚い白状する気になれるから。”
“俺のことを、悪名高い狼だと、罵ってくれないか?”
そうだ。
群れを道連れにしたのは、
この俺だと言ってくれ。




