172. 天福 2
172. Bliss 2
“此処しかないだろうと思った…”
…あの時、そう直感したのだ。
唯一の対抗手段、俺の牙の代わりとなる刃、そいつの転送先。
言わば、最終目的地。
それを思い描いた時、
俺とお前は、此処で対峙するより他無いと。
“どうしてか、分るか?Garm。”
俺に少しも目を合わせようとはせず、奴は俯きがちに淡々と語った。
己の勇敢な行いを労って欲しくて仕方が無かったのか、
首元の毛皮を咥えられて尚、尻尾を振り回していたSiriusに甘え声で答えると、
谷底に向いていない胴へと首を捻って、安全な平地へと運び込む。
その様子が目障りで、俺の耳には奴の話が少しも入ってきそうには無かった。
しかし、それだけじゃない。
激昂の余りにそうなってもおかしくなかったが、俺もまた、彼から視線を逸らすことを余儀なくされていたのだ。
Fenrirが張り付いている崖肌の奥に、見覚えのある亀裂が延びている。
“……!!”
相変わらず、俺自身の記憶だと錯覚させるそいつは、
思わず視界を潤ませるような愚行に走った。
一匹の大狼が、ちょうど潜り込めるぐらいの大きさの洞穴が、ぽっかりと口を開けていたのだ。
それが何かは、さっぱり分からない。分るわけがない。
俺はそこで幸せなひと時を最愛の狼と過ごした記憶など無い。
地獄の入り口を思わせるほど、真っ暗なそこから、奴は這い出て来ただけのこと。
その方法など、知る由も無い。
が…まさか…
一つだけ確かなことは、
俺はこの狼に、そして自分自身に、ずっと騙され続けていたのだ。
そうに違いない。
“謀ッタナァァッ!!貴様ァァァッ!!”
ありったけの憎しみを込めて叫ぶと、本当にそうである気がして来た。
今の自分には、その炎がどれだけ命の灯に取って代わってくれることだろう。
どうにかして前脚を大剣の柄にかけると身体を捩り、渾身の力を込めてよじ登った。
脇の下に持ち手が隠れ、ようやく重心を安定させることができると、思わず涙が端から零れた。
あの落下が、本能的な恐怖に結びついているのは、やはり俺が俺自身として、死を一度迎えているからなのだろう。
情けないが、要は死ぬのが怖かったのだ。
“…確かに、お前の群れを機能不全に陥れたのは、この俺だ。”
それは、隠したりしない。
“ヨクゾマア、躊躇イモナクソンナ言葉ガ抜カセタモノダナ…!”
悪気を感じていないと言っているようなものだった。
一言一句に苛立ちを覚えて、不愉快極まる。
“…その点については、誤解なくはっきりとさせておきたいのだ。”
“俺以外の、誰にも責任が無いことを。”
“これは俺が、あいつとその群れに対して犯した罪で、最大の侮辱だから。”
“ア゛ア゛ッ!?余所者ノ群レハドウデモイイッテカ!?”
お前が…群れのことをどう思っているか知らないが、
こんなことをする奴が、その一員を名乗るなど、俺は認めないぞ。
この犠牲が、一匹の狼の裏切りによって為されたなんて、未だに信じられない。
まさか、まさかお前が。
人間の味方をするだなんて。
同胞を、特攻隊か何かのように扱い、
自らと同じ道を辿らせ、自爆に追い込むような、その悲劇的思考。
俺はお前が大嫌いだ。
群れを奪った、あの老い耄れ共より下劣な、悪名高き怪物に相応しいよ。
“見損ナッタゾ、主ヨ。”
“……。”
Fenrirは驚いたように目を見開くと、俺がさっきそうしたように瞳を瞬かせ、
その表情からあらゆる威厳を瞬く間に失ってしまった。
自分でも驚いた。
その口調が現れたのは、自然であって、少しもその意図が無かったから。
“……。”
“ごめんなさい。”
“我が……狼。”
――――――――――――
“……聞いてくれるか?Garm。”
あの術を見出したのは、そう昔のことではないのだ。
お前が知らない神様からの、天啓のようなものに唆されたのだと思ってくれれば良い。
ずっと考えあぐねて来たのだ。
もし俺たちが、自らを犠牲にしてでも、外部からの脅威に対抗しなくてはならない時が訪れた時に、
俺は自分の友達に対して、何をしてあげられるだろうかと。
俺が何故、死を選ぶに至ったのか。
お前と共に在る狼なら、知っていると思う。
そうだ。
飢えによって理性を失った己自信から、この世界を救うこと。
それが、子供の頃に見出した、初めてもっともらしいと思った、藁の上の死だったのだ。
狼とは、人間にとって、神様にとって脅威である。
その根底が、俺の中で覆らない。
“今でもこう考えているのだ。”
“俺が、もし狼であるとするならば。”
“やはり俺は、この世界に生かされるべきでは無いのでは無いか、と。”
名前を与えられたことを、これほど幸運として受け取ったことは無い。
“俺は、俺が自分自身を縛ることを、答えとして選んだ。”
“狼を、この世界から。そしてもう一つの世界からも消し去ってしまえば。”
“きっと俺のような悪役は、いなくなる。”
“お前のような、主人公だって。”
俺達はもう、悲しい思いをして、
今生の別れを乗り越えようと足掻かずに済むんだ。




