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172. 天福

172. Bliss


“アアッッッッ…ゥアァァァ、アッ……!!”


更に、更にと加速する。

この感覚もまた、覚えているのだ。


困ったことだ。

俺は一体、何時まで記憶にない体験をさせられ続けるのだろう。


“……?”


脳裏に浮かんだ、幻の世界。俺が歩いてきた道とは、まるで違っていた。


足元を見降ろせば、それはヘルヘイムへ至る灰の砂の上では無い。


そうか。これが…

オーロラの上を歩くことを許された者の、死か。


美しい緑白色に包まれた薄氷だった。

思わず鼻を近づけて見たくなるような透明さで、

氷面には俺の顔が、興味津々といった様子で映り込んでいる。

縫い目なく奇麗なこの尊顔が、お前という訳だな。


思ったよりも、似ていない気がするが。

どちらかと言えば、あいつ寄りの眼差しをしている。

俺は悪役だから、もっと目つきが悪いんだ。


…ああ、お前自身は、自分の顔なんかに興味は無いよな。

見つめているのは、その先だ。


青白く染め上げられた、この森が一望できて。

お前は愛おしい景色を纏った我が故郷に、釘付けになっている。


地上から、同胞の遠吠えが聞こえて来るのが、気になって仕方がない。

賛美の吠え声を上げたくて、うずうずと尻尾をくねらせている。


未練があるのだな。


分るよ。

俺も、同じ気持ちでいる。


もしこの薄氷に爪を立て、亀裂を入れて、光の溢れ出す罅の隙間から飛び降りたなら。


俺はもう一度、地上へ舞い戻ることが、叶うだろうか。


女神の偏愛に迎え入れられた光栄なんて、いらないから。




“アウォォォォーーーー……”




そうやって、次に瞬間には、もう踏み外していたんだ。


気付いたころには、もう遅かった。

ざまあ無いな。

今度は地獄へ向かって、真っ逆さまに墜ちていく。


それなのに、どうだ。

お前は大して、焦りも絶望も感じていないようだな。


自分はもう、幸福を享受するのに値しないと思っているようだ。

口の中にいっぱいに咥えているのが、恐ろしくなって、

全部投げ出してしまった方が楽だと。






“オ前ガ俺ニ見セタカッタノハ、コンナモノカ…?”


それで俺に、何を伝えようと言うのだ?

同情して欲しかっただけか?

それともあの野郎のことを、許してやってくれってのか?




“フザケル、ナ……!!”



嫌だ。


最期まで、相反していたかった。



“オ前ト同ジ道ヲ辿ルノダケハ、願イ下ゲダッ……!!”



無我夢中で何かを掴もうと藻掻く。


風に靡いて、身体を繋ぎ止めてくれていた百足が剥がれそうだ。

そのまま俺の毛皮の裏に縫い合わされた、この狼とも決別出来はしないのか。


無理なんだろうな。

その時は、俺はようやく真にヘルヘイムの住民として、

オ嬢の目にも留まらず、彷徨い続ける抜け殻と化しているのだろう。


嫌だ。


何だって、誰だって良い。誰か、俺に手を差し伸べてくれないのか。


助けてくれ。


幸福なんて、やっぱり在りはしなかったのか。


俺を、一匹狼にしないで




“……!?”




その時だ。



強風で乾いた瞳を潤そうと溢れた涙が、端から吹き飛んでいく。

その僅かな隙間に。


頭から墜ちていく、眼下の視界に、

俺は岩肌から突き出た、不自然な枝木を見逃さなかった。




“グルルゥゥゥッッ……!!”




噛みつくしかない。


狙った獲物は、死んでも離すな。

そう言い聞かせて来たんだ。まさか自分が、仕損じまいな。





ガリリッ……



一瞬で頭と尻尾の位置が逆転し、俺の落下速度はガクンと落ちた。


“ヴゥッ…!!”


牙をごりごりと擦る音と共に、首が捥げそうになる程の衝撃が走る。

思わず悲鳴が口から洩れるが、逆に喰い込ませて、がっちりと口に咥えた。

何本かの歯を犠牲にしてでも、こいつから離れる訳には行かない。



幸いなことに、その奇妙な枝木は俺の巨体を受け止めても折れない程に頑丈だった。

刺さっていた逆端が、俺の落下に必死に抗いながら、岩肌に一本の切傷を引き下ろして行く。



ガリガリッ、ガリガリリリリッ……!!



“頼ムッ…止マッデェ……、止マッデグレェッ……!!”


一生に思われるほどの長い時間を、目をきつく瞑って待っていた。


必ず、必ずいつかは止まる。

それまで、何とかして耐えろ。

助かる、絶対に助かるから。


口の中をぼろぼろにして、尻尾をぎゅっと股の下に挟んで、

俺は半べそをかきながら、この命綱に縋っていた。




“………。”




どれ程の時間を、そうしていただろう。


九死に一生を得たと気がついたのは、完全に岩壁を削る悲鳴が止んで、

それから遅れて降り続ける岩屑のパラパラという音さえも消えてから、

だいぶ経った後だった。



首より下を力なくだらりと下げて、ぶらぶらと揺らしたまま。


“ハァツ…ハァッ、アァッ…ハアァァッ……!!”


放心状態で、涙を流す。



“ア、アァ……”



そんなことが、あるだろうか。



俺が、藁にも縋る思いで噛みついていたのは、大剣の柄だった。



この腹を仔狼たちごと切り裂いた、あの恐ろしい、狼殺しの大剣で相違ない。







“あ!―さんだ!このお口、―さんですよねっ!?”


“……?”


そして恐る恐る、溌溂とした声の主の方を眼だけで向くと。


あり得ない光景が、広がっていたのだ。



あの若狼が、首の裏の毛皮を咥えられて、子供のようにぶら下げられている。

お前、俺と一緒に随分酷い目に遭わされていたんだな。


そしてやんちゃな仔狼を咥える主とは、年の離れた兄弟か、面倒見の良い親狼であるのが常だ。


しかし、今回に限っては、その救世主とは、違うらしい。


“僕、ほんとにっ…助けに来てくれるって信じてたけど、にこのまま落っこちちゃうかと思いましたっ…”


“良かったぁっ…!良かったぁっ…―さんっ…―さんっ…僕…!!”







“何故ダ……”






“何故オ前ガ、此処ニイルゥッ…!?”







其処には、Fenrirが、壁と垂直に爪を立て、

Siriusを咥えて、悠々と毛皮を風に靡かせていたのだ。




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