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170. 相殺呪文

170. Counterbalance


「ありがとうね、Skaは力持ちで、本当に助かるよ…」



うん、大丈夫。此処で良い。

陽の光さえ感じられない曇天であるけれど、

ヴァン川を上流から下流にかけて見渡せる、良い景色だ。


きっと、新鮮に感じているのだと思う。

家から出て、裏手をちょっと歩けば見える場所でも。

窓辺はいつも、彼女の指定席だったから。

あいつに言わせれば、俺は今、末期の眼をしているのだろうね。


彼女、連れて来なくて、良かったのかだって?

うん、休ませてあげようと思って。


…ああ、気が変わったんだよ。


寄りかかっても、構わないかい?

座って、休んでいたいのだけれど、一人では身体を支えていられない。

力が、うまく入らないんだ。


確かに、初めに思い描いていた場面は、こうでは無かった。

あの大狼が俺のことを迎えに来るときは、此処で力なく、膝を崩してぺたりと座り込んで。

彼女をぎゅっと、抱きしめているつもりだった。

まるでそう、無慈悲な怪物に襲われんとする、絶体絶命の夫婦みたいにね。


最期くらいは、無力な脇役を演じていたかったのかも知れない。

けれども、そこに割って入る英雄の姿を想像したいとも、思わなかったんだ。


ただ、彼女だけが連れ去られるのが、怖かった。


それだけは、嫌だ。

でなければ、俺の死に方とは、目的そのものに変わってしまって。

あの狼と同じように、喉元を掻き毟って吠えるだろう。


墜ちるのなら、一緒にでないと。

この世界にいる意味が無いなんて。


本気でそう思っていると彼女が知ったら、どう思うのだろうね。

想いが、伝わらなかったと思うのかな。

お互い、勝手だよ。


お人好しの夫婦、か。




今までで、一番彼女に言われて嬉しかった言葉かも。




ねえ。Skaは、Gortさんに言われて一番尻尾を振った言葉って、何かあるかな?

君にしか聞けないような質問だから、後で是非とも翻訳家を通してみたいよ。


それでね、それがどんな言葉であってもさ。

貴方は正しかった、と。

行動によって、返してあげたくならなかった?


誰しも言われたり、褒められた通りになろうと頑張っちゃうような性格を持ち合わせていると思うんだ。


僕は良い仔です。そう示して褒められたい。

そんなことしなくたって良いと、心の底では分かっているのに。

あんまり、普段は褒められないような、薄幸な日々がそうさせるのだと思う。


そうそう、あの狼のこと言ってるの。わかるかい?

だから…だから。


俺は、Fenrirに話しかけるのを決して止めなかった。

優しい怪物だって、ね。


そうなって欲しいな、という願いを含んでいたのだとしても。


俺はあいつのこと、初めて会った時にそう言ってやったんだよ。




でねえ、人のこと、言えないんだ、俺。

…いや、狼のこと、かな?

俺も彼女にそう言われてしまうと、

彼女が期待するように振舞いたいなと思ってしまう質だ。


子供だよね、そんな欲求に突き動かされたような勇気なんて。


碌な奇跡を、呼び起こさないと思うよ。



だからこれは。

これから起きることは、Fenrirへのちょっとしたお節介ってところかな。


ううん、違う。


これは仕返しだ。




やられたら、やり返さなくっちゃ。

滅茶苦茶、腹が立ったんだ。




あいつの思い通りになんか、させるものか。







「…今日はだいぶ、暖かいんだね。」


君に寄りかかっていると、毛皮から伝わる温もりが、いつもより力強い。

雪解けの勢いを乗せた潺の音も、僅かに衰えたようだ。


そうか…もう、春も終わってしまうのか。


あの狼は、己の毛皮を拭い捨て、

生まれ変わったように、瘦せこけるのだ。



毛繕いを、してあげよう。

霜の血が染みついた身体を、洗い流してあげなくちゃ。

それで臭いを、いっぱい嗅ぎたい。


きっと、今こうして顔を押し当てている、

君のような香りが漂うから。







「……ああ、来たようだね。」


冷たい西風が、森の方から、ヴァン川を越えて、流れ込んで来る。


段々と、勢いを増し、遂には水面を荒波のように激しく揺らしだした。


ゴオォォ……!!ビュゴゴゥッッ……!!


隣で耳を立てて対岸を注視する狼の毛皮は、川岸で為されるが儘にうねる芝生のように靡いていた。

余りの荒くれように、目を瞑ると猛吹雪が襲って来たのかと勘違いしてしまうほどだった。



いや、実際、その化身と言って、差支えないだろう。




“……―――ッ!!”




大狼は、全身から青い光を纏って迸らせ、

正に風のような速さで、此方へと接近せんと驀進する。




“ィゥウウウッーーー!!”




息継ぎさえ忘れ、狂犬のように涎を垂らして。




“ティウゥゥッゥゥッゥゥゥゥゥーーーーー!!”




俺の名を罵り続けていたのだ。





殺す、必ず息の根を引き取って、連れて行く。


冷静に死を覚悟してしまえる、圧倒的な迫力。


それを、ただ一匹だけで体現してしまえる。


北欧神話最高峰の狼が。



“返セエエエェェェェーーーーーッ!!”




“俺ノ家族ヲヲォォォッー!!”



“群レヲッ……!!”



“仲間ヲォォッ!!”



“カエシテクレエエエエエエエエエエッッッッーーーーーーー!!!!”




狼が、哭いている。





「君を、待っていたよ。」




彼の後に続くのは、怨念のように棚引く悲壮感ばかりだった。


Garmは…走り方を忘れて、ぐちゃぐちゃに、転げまわるようにして走っていた。

顔は、百足をぐちぐちと這わせて、それをまるで両手で表情を覆う代わりとするようにして、

泣き顔を誤魔化して牙を剥いていた。




「Garm……」




本当に、俺は。


君とも、友達になれるかもと思っていた。




“さあ、我らが長よ。”




Skaは、長老様に似ない、どっしりとした態度で、朗々と謳う。




“今こそ、長としての役目を果たすときです。”




彼の険しい目つきは、群れを率いる長というよりも。

そうだな、親父に似ていた。

初めて、この狼に、苦手な一面を見出してしまったのかも知れない。

いいや、忘れよう。俺が荒んでいるだけだ。


“……さあ、おいで。Sirius。”


“大丈夫。怖がらなくて良いから。”


“この方に、毛皮を触れさせてあげて。”


“……そう、良い仔だ。”



俺は、Skaに預けていた体重を、そっくりそのままSiriusに移してもたれかかる。

彼は僅かに重心を崩しかけたが、すぐに持ち直して父親のように尻尾を堂々と掲げる。


けれど、彼の心臓は壊れそうなぐらいに脈打っていて。

ぷるぷると、産まれたての仔狼のように、震えていた。


“ごめん。”


“……パパは、君とは一緒に行けない。”


“此処で、Teus様をお守りしなくてはならないから。”




“……覚悟はできてる。”


勇敢な狼は、自ら発したその言葉に、頼った。


“…必ず、助けてくれますよね?”


“ああ、必ず。”


最後にSkaは、甘えん坊な末っ子に額を押し当てると、幸せな臭いの詰まった毛皮に鼻を押し当てて、吸った。


“あの方なら、きっと。”






今や、大嵐のような突風が、俺たちを包み込んでいた。


見上げれば、あれだけの川幅を誇った大河を一っ飛びで超えて。


大狼が、遂に対岸へと。


最終防壁ライン。ヴェズーヴァへと、降り立っていた。







もう少し、あとほんの、もう少しで。

届くのに。


やっと、会えるのに。




「さあ、行っておいで。」







「Garm。」




ヴァン族の主神の名に於いて、




「俺は君を、追放する。」







世界は、最愛の狼は、


目の前から、







消えた。




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