169. 数多の犠牲
169. Hecatomb
走っていて、こんなに気分の悪かったことなど、あったであろうか。
いつだって、群れの息遣いや、後ろへ吹き飛んでいく景色に、胸が躍ったものであるのに。
我は思えば、いかに狼として祝福されてきていたかを忘れておったのかも知れぬ。
何故だ。腹に切り裂かれた、この一太刀がいかぬのか。
四肢を伸ばし切るたびに、内臓がねじ切れそうだ。
“アア、アアァァ…”
だが、それよりもっと酷い苦しみを被っておる、我が仔らのことを瞼に浮かべただけで。
このまま、裂け目が胸元まで広がり、真っ二つに引き千切られてしまえば良いと本気で思えた。
そうか。我は今から、憎き神々に殺されに行くのかも知れぬな。
償いにさえ、ならぬだろうが。
初めに家族の痕跡に辿り着いたのは、我が彼らと袂を分かった濁り川から、目的地へ半分と少しの地点。
全ては、きっと上手くいくはずであったのに。
最後尾から群れを見守り続けてくれていた、Busterを見つけたのだ。
やっと追い付いたという安堵は微塵も無かった。
一刻も早く駆けつけることが、我らに少しでも幸運を齎してくれる、そう信じることさえ憚られた。
それだけ、もう手遅れだという予感は重く伸し掛かるように垂れ込めていたから。
兎に角吐き気を堪えて、走った。
出来るだけ惨くはない情景を目の当たりにして、怪物的な成長を遂げる忌々しい妄想を掻き消してしまいたかったのだ。
“ア…ア………。”
そうして嗅ぎ当てたBusterの名残の果てが、これだ。
これなのだ。
繭に包まった剥製が、大木の根に糸を張っている。
吐き気を抑えながら近寄ってみたいのに、口元へ運ぶ手が無い。
可愛い我が仔は、絹のような光沢の糸で縛り上げられ、無残にも幹や地面に幾重にも括りつけられていたのだ。
その撚糸に目を凝らせば、ああ、読み覚えがある。
神々が我らを戒めんと綴った、知恵の文字が、端と端を結びあって、繋いであった。
その場にひれ伏し、がむしゃらに拘束の縄に噛みつきたい衝動に駆られない。
罠に絡めとられた狼の名を呼び掛けてやる勇気さえ、湧いてこない。
返事が無いと分かるのが、怖くて堪らなかったのだ。
それが鋭く研がれたトラバサミであったなら、喩え其奴が息絶えていようとも、人間の目に晒される前に
解放してやることを真っ先に選んでいただろう。
そのままでは、旅立てぬ。
主には立派に駆ける脚が必要であるから。
しかし、これは……仮死であると、直感的にわかる。
主は、此処におる。
けれども、我の声は、主に届いておらぬのだな?
ああ、遠吠えの返事が無かったのは、そのせいに違いない。
彼らが我の声を聞き紛う筈が無かったのだ。
既に瞳に生気は無く、毛皮は切り倒された大樹で何も知らぬ若葉のように、血の気を絶たれて何処か艶を失って見えた。
それはまるで、人間が作り上げたトロフィーであった。
“……!?”
そしてその狼とは、一匹では無かった。
Busterは、もう一匹の狼と一緒に、
抱き合うようにして、その拘束を与えられていたのだ。
“ウア、ウアァ……?”
なんと言うことだろうか。
どちらが我が仔であるのか。
言い当てることが出来ぬ。
瓜二つだ。
それは、ある種予想できたことではあった。
ヴァン川の向こうには、我の知る狼が待ってくれておる、その期待を確信へと変えてくれる手掛かりであったのだ。
……それを、よりにもよって。
我が仔の犠牲によって、示されることがあろうか。
そして、この場に置き去りにしなくてはならないなんて。
そんな非情な狼がおって良いのか?
増してや、群れを率いる役目を負った誇りの銀毛が。
“ハハハ……ハハ、ハハ……”
もう、顔を保つことが出来ないと思った。
自分でも手に取るように分かるような狼狽ぶりに、嗤ってしまいたくなるほどだ。
次に見つけたのは、愛娘のDireであった。
そうか。Busterは、すぐさま伏兵の異常さを感じ取って、先に行けと促したのであろう。
兄妹思いの、素晴らしい判断を下したのだな。
それが、仇となったことなど、決してない。
それは彼女の足跡から分かることだ。
Direもまた、兄に倣って、群れを前へと推し進めるために、獣道から外れて、その襲撃者と相殺されることを選んでいた。
そうやって、一匹だけでも、我の代わりに、辿りつけるようにと。
少しずつ、少しづつ、群れ仲間たちは減り続けたのだ。
全員見つけるまで、前には進まないと固く決め込んだせいで。
お陰で道草が捗ることだ。
そうして先頭集団に追い付くころには、我はすっかりこの散歩道が気に入ってしまっていた。
是非また、訪れてみたいものだ。
もし、夢の中で再び歩くことがあれば、我はどんな狼に遭遇するのであろう。
Aro、Nymeria、お前たちも、よく頑張ったな。
実のところ、血気盛んな主らのことが気が気でなかったのだが。
無用な心配であったということだな。
ちゃんと、役割を弁え、ひたむきな眼差しで群れを見守ることが出来た。
襷は、繋がったのだ。
つまりは、此処で果てた老狼たちが、最後であるのだな。
“フゥーー……”
ああ、主よ、我が狼よ。
Garmよ、聞こえておるか。
泣き疲れたであろう。
暫しの間、代走を買って出よう。
もう目の前であるのだ。
主は少し、休むが良い。
その間、慰めにもならぬかも知れぬが。
我が懺悔に、耳を傾けてはくれぬか。
独白であっても、構わぬ。
あの狼にも、我はそんなことを呟いておることだろう。
我は…前にも、似たような体験をさせられて来たのだ。
苦しいなどという言葉では、生易しかった。
その再来として、これは悪夢であると言えるだろう。
こんなに静かな森は、あの時以来だ。地獄よりも不気味だとは思わないか。
我ら以外、一匹もおらぬのだぞ。
全ては、群れの行く末を担う我の責任であった。
とある人間を、友に選んでしまったが為だ。
何を血迷ったことを、主はそう思うであろう。
我とて、踏み外したと認めておる。
あの大狼とは対立しようとも、これは過ちであったと。
…主は、存外に罵らぬのやも分からぬな。
あの少女は、主にとっての何だ。
主に無限の同胞の群れを率いる力と、こうして地獄の門を開く権利を授け、
もう一度だけ、チャンスを与えてくれた、心優しい神様か?
或いは、一匹ぼっちの世界で、穏やかな失意に塗れた灰の上で、
唯一人、手を差し伸べてくれた、優しいお友達であったか?
それとも、ただ人間とか狼とか、どうでも良くて。
かけがえのない兄妹であると、心の底では知っておったかのう?
そのどれであっても構わぬ。
我は、どの帰結にも関与しない。
一匹の媒介者に過ぎぬ。
ただ、我は。
ニブルヘイムへと足を滑らせたあの老い耄れのことを。
そうだな。
信じて当然だと、考えていたのだと思う。
それに、理由などいらない、と。
それだけが、過ちであった。
ヴァン川の向こうへと、領界を渡るのが、堪らなく恐ろしかった。
膝が震えて、言うことを聞かなかった。
在奴を殺せる自信が、まるで無かったから。
…今も、そうだ。
主は…Garmは、どうであろうか。
Garm。其方は、会いに行かねばならぬ。
“必ず、会えるから。”
それだけは、どうか。
主が、主だけは、恐れずに信じて欲しい。




