168. おかえり
168. Welcome Back, Wolf
佇まいだけで、そうと分かる。
Freyaの運び手と思しき狼は、雌狼だった。
はじめはSkaの人選が的確であるとは思えなかった。
確かに、同性の狼の臭いをFreyaは夢の中で心地よく思うことだろうけれど。
彼女をヴァナヘイムへ運ぶのには、屈強で、如何なる襲撃にも動じない、それこそSkaのような存在が相応しいと考えていたのだ。
その雌狼はSkaと同じように、愁いを帯びた表情で動かなくなった人間に、恐る恐る鼻を触れて嗅いでいた。
ねえ、君。
味を見なくたって、もう分かるんだろうけど。
舌を頬に這わせてあげてくれないかな?
もしかしたら、くすぐったくて、目を醒ましてくれるかも知れないからさ。
誰かの接吻が、そんな奇跡を起こしてくれはしないか。
王子様が呪いを解くような幸せなおとぎ話を、Fenrirも俺もあまり好まないけど。
少なくとも俺にはもうそんな力が残されているとは思えないんだ。
“……?”
彼女の鼻先は、仰向けにさせられたFreyaの顔から足元の方へと辿られていく。
いや、途中で止まったようだ。
身体の何処かに、嗅ぎたくなるような強い臭いが残されていたのかも知れない。
だとしたらそれは、この枯れ果てた抜け殻がFreyaであると認識する為の、微かな拠り所であるに違いなかった。
やっぱり、ヴァナヘイムに連れて行くのに、彼女とこの雌狼だけでは心許ないのではないだろうか。
狼の嗅覚でさえ、そのような造作を必要とするのでは、街の神様たちが彼女の面影を見出すことは、誰かの証言なしには実現しないような気がして来た。
その狼は中々に腰が重いようで、Skaの指図を直ちに行動へと移そうとしなかった。
何処かの一点を、頻りに嗅いでは、尻尾を悲し気に揺らして耳を伏せていた。
「……?」
その嗅いでいる場所とは、
彼女の股間だった。
俺の欠色の視界に於いて、尚不気味に赤く染まって艶やかに映る、流産の痕跡。
彼女は、Freyaの足元へとゆっくりと回り込むと、ワンピースの下へと鼻先を潜り込ませ、顔を近づけたのだ。
「な、にを……?」
衣服の下で、狼の顔が輪郭を失って隆起する。
ぺちゃ、ぺちゃ…ぺちゃっ…
「お、おい…」
何の、音だ…?
“……。”
Skaが、俺の視界に彼女たちが入らないようにと、さりげなく間に割って入る。
くちゅっ、ずちゅっ…べちゃっ…
ずりゅりゅりゅっ…
「……っ!?」
最後の、何かを引き摺るような音には、鳥肌が立った。
ま、まさかっ…!?
「や、やmっ…っ!?……ぅっ?っぇぇ…!?」
気が動転して、上手くしゃべれない。
呼吸さえもままならず、目の前でひたすら視線を合わせようとしないSkaに、俺は無我夢中で手を伸ばした。
彼は、それが俺の暴力、或いは暴れてでも彼女の行為を止めさせるという強い意志に取れたらしい。
“ぐるる……”
「っ……!!」
甘噛みなどではない。
明瞭な威嚇を表し、
俺の右手に、しっかりと噛みついたのだ。
「ぅぁっ…!?」
俺が漏らした悲鳴に、Skaは直ちに口を離す。
大きく距離を取ろうとばたばたと床を引っ掻いて後退り、そっぽを向いてぴたりと静止した。
“ぴぃー…………”
その鳴き声だけで、鼻を揺らしてむせび泣く姿を見て。
Skaは人間にとって、彼女の行為がどれだけ不愉快なものに当たるかを理解しつつ、
同時に俺からさえも、理解されるものでは無いことを、自覚しているのだと分かった。
“ごめんなさい。”
彼は、Freyaの忠実な狼であり続けていたのだ。
「はぁっ…あぁっ……あぁっ…あはぁっ……」
理解の及ばぬことへの怒りが。
「あぁ……。」
次第に引いて、薄まっていく。