166. 銀筋毛の乳母
166. Silverchase Midwife
「S、Ska……君、一体何をしたんだ?」
「Fenrirは、君たちに、何を教えたんだ!?」
「教えてくれっ!!Ska!!」
俺は首元に回していた両腕を頬の毛皮に回すと、人で言うところの肩を掴んで揺さぶるようにして問い詰めた。
“……。”
だが彼は、悲し気に瞳を伏せ、礼儀正しく目を逸らすだけ。
彼らは、そうやって直視しないことを、いつだって敬意と履き違えて甚だしい。
「Ska……」
死体のように皺枯れた肌から冷たい汗が流れ、潰えたはずの心の底から震えあがった。
あいつ、ヴァナヘイムの狼たちに、何を吹き込んだんだ…?
沸々と怒りが込みあげてきたのは、俺がまだこの群れのことを見捨てていない何よりの証左だと思っている。
自分が目の前の狼に言い放った冷酷な告別を、忘れてなどいない。
でも、Fenrir。
この狼たちを犠牲にしたら、
…それじゃあ、何の意味もないだろ。
あれだけ俺に救われるのを嫌がっていたのに。
君は狼という存在をまるで分かっちゃいない。
護らなくちゃならないんだよ?
一緒になって戦って、どうするんだよ。
そこまでしないと勝てないような相手に、
君はどうして立ち向かうんだ?
Skaが俺に対して伝えようとしている言葉、その一言一句が分かる訳じゃない。
背中に負ぶさって眠っている彼女だったら、Skaとまるで狼同士がそうするように、全身を交えた会話を交わしてくれるのだろう。
でも、今のFreyaは、呼吸の一つだって聞かせてくれない。
俺の耳が、悪いのかも。目は彩りの一切を失ってしまっているから、自然な類推だと思う。
狼の耳を胸に押し当てたなら、まだ彼女の中に、生者の片鱗を聞き取ることが出来るのかな。
でも、此処まで墜ちた俺でも、
Skaが、皆が、
決意したのだと分かった。
“奇跡” を、起こそうとしている。
「Ska…口を開けてくれない?」
さっきまで、一心不乱に俺の顔べろべろ舐めてくれてたじゃないか。
嫌がらないから、好きにしてくれていいから。
「Skaっ…!!」
大きい声に驚き、彼はびくっと身体を震わせる。
「ご、ごめん…」
怯えた耳と垂れた髭に、虐待を加えたような罪悪感が胸を突き刺す。
言うことを聞いてくれないからって、怒鳴って良いはずが無いのに。
「お、お願いだよ…スカ…」
ね?良い仔だから。
“キュウゥゥ……。”
「……。」
……どうしても、だめか。
「いいよ。君には俺よりも、彼の言いつけを優先して欲しい。」
全く、してやられたよ。
あいつに、俺にだけは絶対に見せるなって言われてるんだろ?
「はぁー……」
俺は深い溜息を吐くと、Skaに寄りかかっていた身体を横たえ、天井を呆然と見上げた。
感情的になったせいだろうか、身体が少し温まった気がした。
生きている証拠だとか、少しも喜べそうにないな。
あの大狼は、容易く俺の想定を凌駕した。
彼が断ち切ることを惜しんだ人間との結び目を保ってあげたかったばかりに。
体格だけでなく、神様としての力まで、怪物的成長を遂げてしまったようだ。
全く、凄まじい力を身に着けてしまったんだな。
「Fenrir……。」
君たち群れに刻み込まれた言葉。
敢えてそれは、呪いだと言っておこう。
俺は本当に、Fenrirのことを許すことが出来そうにない。
「…Ska。」
ごろんと寝転がって無防備な自分の顔さえ、舐めに来てくれないや。
本当に愛想を尽かされてしまった、そう思って顔を転がすと、
彼はぴくりとも動かないFreyaに恐る恐る鼻を近づけ、心配そうに臭いを嗅いでいるところだった。
「ああ……」
そうだ…思い出した。
俺、彼女を町の助産師の元へ連れて行かなきゃならないんだ。
「Ska、時間が無いんだ。」
お願いがある。
ずっとお願いしてばかりだけど。
俺に頼れる人間なんて、ゴルトさんとFreyaぐらいしかいないからさ。
「Freyaと俺を…ヴァナヘイムまで、連れて行ってくれない…?」
”……?”
「あはは、彼女だけ連れて行くのではだめなのかって思うだろ?」
俺も、自分は此処に残って、最期までこの地を護らなくてはならないと思ってる。
…でも、どうしても、今は彼女の傍らを離れたくないんだ。
一度でも、目を離してしまったら。
攫われてしまう気がして。
「あの大狼が、Garmが。」
「…彼女のことを、迎えに来る。」
そんな気がして、怖くて堪らないんだ。
「お願いだよ、Ska……」
身が引き裂かれてくれないと。
俺は妻も狼も、守れない。
「助けて、あげて……」
どんどん涙が溢れて来る。
半死を遂げた身であるなら、感情も相応に冷め切ってくれれば、どれだけ楽なことだろうか。
しゃくり上げるような喉の動きに、軋みを感じるけれど。
熱く込みあげて来るんだ。
“……。”
彼はいつものように、自分の命令を一言も聞き漏らすまいと、微動だにせず俺の口元を注視し続けていた。
そして俯き、暫く考える素振りを見せると、顎を少し逸らして、召集の吠え声を上げた。
“ウッフ!ウッフ…!”
「ああ…ありがとう。」
仲間を呼んできてくれるみたい。
これでFreyaは、一先ず安心かな。
あとはどうやって、ヴァナヘイムの人たちに今の状況を理解して貰うかだけど…
「……。」
受け入れて、くれるだろうか。
彼女の変わり果てた容姿を見て。
途端に俺は、彼女を然るべき処置をしてくれる場所へ連れて行くことに不安を覚え始めた。
仮に彼女は引き取ってくれるとして、俺はどうだ?
門前払いなら、まだ良い方だ。
彼女だけを引き渡して、俺だけは与えられた責務を果たせと追い返されたら?
結局Freyaとは、離れ離れだ。
それじゃあ、意味が無い。
俺なんかよりも頼もしい神々と一緒にいた方が、Freyaは安全に違いないのは分かり切ってはいるけれど。
自分の力が及ばないところで、彼女へ伸びる魔の手を黙って見ているのが、どうしても嫌だったのだ。
でも、でも…
……。
何を考えているんだ、俺。
ちゃんと、彼女には、出産させてあげなきゃ。
亡骸であっても、お腹の中にいさせるよりは、外の世界で、会ってあげたい。
Freyaは大丈夫。
きっと、大丈夫だから。
「やっぱり、彼女だけでいい。」
扉が軋む音と共に、一匹の狼が入室する。
お迎えが来たようだ。
何やらSkaと、狼同士の会話をしているようだが。
それで要件が伝わるなら、割って入る必要も無い。
「……出来るだけ早く、連れて行ってくれ。」