165. ドッペルゲンガー
165. Vesuvan Doppelganger
Buster、可愛い我が仔よ。
群れの大移動に於いて、最も力がある狼は何処に配置されるべきだと思う?
ボスは自分を見降ろさぬよう、腹ばいになって顎を地につけると、夜伽を語りかけるような口調でそう問いかけた。
そりゃあ勿論、先頭に立つに決まっています。
皆が安心できるように、群れを率いて突き進むんだ。
貴方のように、
そうですよね?ボス。
この何気ないひと時が何よりも大好きで、一緒に隣でごろんとして甘えたくなるけれど。
ぐっとこらえて、背筋と耳をピンと伸ばし、お座りをしていたのを覚えている。
うむ。それは確かに、理に適った考え方であるな。
皆が安心して進めるように、か。
主は紛れもなく、群れを率いる狼に相応しい、覚悟を備えておるぞ。
しかし、Busterよ。
もしも我に代わって、群れの面倒を見なくてはならない時が来たなら。
覚えておいておくれ。
本当に、この群れを命に代えても護りたいと考えるなら。
主は常に、最後尾から皆のことを見守るのだ。
え……?
そ、それはどうしてなのです?ボス……
それは、主が力の無い、群れの中でも下っ端であったならと想像すれば容易い。
或いは、主が十分に年老いて、同胞の狩りの帰還を仔狼らと待つ側になったなら。
分るな?Buster。
そ、そっか…
僕が全速力で先頭をひた走っても。
力が及ばない他の狼たちは、息切れを起こしてついて来れないや。
だから、誰も遅れを取って取り残されてしまわないように、
僕が常に、全体を見渡せる位置で待機する。
…それが、群れの長の役目である、と?
ああ、主よ。素晴らしい。
流石は我が仔であるな。
大丈夫、主ならきっと。
その時、我よりも立派な狼でいられるから…
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いざこうして懐かしいとは言い難い獣道を駆けていると、ボスが仰っていた群れの長としての振舞いの正しさと、そしてその難しさに敬服させられる。
先行く彼らが、不測の事態に行く当てを見失い、散り散りになって拡がっていく様を想像してしまい、僕は口をかぱりと広げて忙しなく鼻を舐めた。
NymeriaもAroも、万が一にも大丈夫だとは思うのだけれど。
知悉した兄弟だからこそ、却って心配なのだ。
やはり僕が先頭に立っているほうが、一番合理的に群れを導けるのでは……。
“……!……!!”
“ねえ、ねえってば。”
“聞いてるの?Buster?”
“……”
“あ?ああ…”
“どうしたの?大丈夫…?”
“ううん、何でもないよ、Dire。”
“何でもないじゃないでしょ、聞こえた?今の遠吠え…?”
え……?
“ごめん、ちょっと考え事してた…”
正直に上の空だったことを詫びると、彼女は溜息を吐いて、しっかりしてよと上唇を僅かに捲る。
“ほんとにもう…パパの言う通り2匹ずつに分かれて、正解だったみたいね。”
“ご、ごめん…それで、ボスは何て?”
大事な指令を聞き漏らしてしまった失態に、尻尾がぎゅっと掴まれたように萎む。
“安心して、パパの声じゃなかったわ。”
“方角は?”
“私たちがパパと分かれた小川の、遥か下流よ。きっとあの狼は、そっちに向ったんだと思う。”
“そうか、じゃあ声の主はそいつだってことt…”
“じ、じゃあボスは…?”
無事なんだよな…まさか、まさか…!?
“バカね、パパがやられる訳ないじゃない。”
で、でも此方に向って猛追するこの足音が、あの狼じゃなくて、ボスのものであるとする証拠は?
“そうね…私はちょっと、Busterよりも楽観的なのかも知れないけれど…”
聞こえた声は、警告のようなものを発してたわ。
それって、私たちじゃなくて、別の誰かに向けてなんじゃないかしら。
パパは多分、あの狼に止めを刺さなかったんだと思う。
優しいから。それが仇にならないといいんだけど。
“そ、そうか…”
よもやDireが、ボスの遠吠えを聞き間違えることは無いもんな。
“うん、君の言う通りだね。”
ボスが僕らの為に、身を挺して作ってくれたチャンスだ。
何としても、無駄にするわけには行かない。
仮にその狼が此方に向ってきてるのだとしても、
僕に与えられた役目が、いよいよやって来たというだけだ。
でも、不安で吐きそうだ。
もしも、もしもボスの身に何かあったりでもしたら…
“……い、急ごう!”
いけない。首を尻尾のように振って、誇りと疑念を振り払う。
良いか、驕った考えこそが、破滅へ至る罠だ。
こんな状況だからこそ、生き急いで自らその墓穴に陥ってはならない。これは総力戦であり、それ故どの一匹も失われてはならないんだ。
それに、あのボスが、僕にこのポジションを任せて下さったんだ。
自分をというより、彼の言葉を信じて、どんと構えていれば良い。
そう己に言い聞かせるも、もどかしくて堪らなかったのだ。
それが、湿気のように纏わりつく不安によるものであると認めたくなかったけれど。
もう、気のせいなんて言っていられなくなった。
やはりこの森、何かがおかしい。
僕の、僕らの故郷は、もう目の前だと言うのに。
もうすぐ安全な巣穴に潜れるからと、自然と早歩きになってしまう怖がりな子供のような気持ちでいる。
僕らの歩くこの道は、嘗て同胞たちが過ごした縄張りであるにも拘わらず、どこか奇妙な息遣いを大樹の陰に有しているからだ。
森が生きているとか、そういう精霊的な話じゃない。
間違いない。誰かが、僕らのすぐ近くにいて、此方を見ている。
苛立たしいことこの上ない。僕らが一定の距離を保って着けられているような気がするなんて、なんて屈辱的で皮肉な話だ。
もしかしたら、この森には、まだ見ぬ悪い狼がうろついているのかも知れないな…
そんな戯れごとで、Direに気を紛らわして貰おうとしたその時だった。
ガサガサッ…!!
“……っ!?”
僕は急ブレーキを掛けて立ち止まり、真後ろの皺枯れた古木を注視した。
”い、今のは…”
舌を巻きたくなるような、実に巧みな追跡だった。
こんなに近くまで、迫って来ていたなんて。
僕らのうちの、常にどちらかの動きに合わせて、自らの足音を掻き消しながら動いていたんだ。
神経を尖らせていなかったら、まず気が付かなかっただろう。
…こいつ、狩りにおいて相当な手練れだぞ。
“どうしたの?Buster?”
“先に行け。”
僕は厳しい口調でそうとだけ伝えると、これ以上僅かな息遣いも聞き漏らすまいと静止した。
…いる。
すぐそこに。
“隠れている奴の正体を見破ったら、すぐに追いつくから。”
“Buster…”
“早くっ!!”
Direが耳を引き、とても不安そうな表情を此方に見せている。
止めてくれ、こっちまで、及び腰になってしまう。
“…きっとよ?”
“分かってる。”
堪えきれなくなって、僕は彼女が毛皮を首の下へ擦り付けて来るのを、何もせずに受け入れた。
“気を付けて。”
“そっちも。”
皆を頼んだよ、Dire。
さあ、群れとはぐれちゃわない内に。
“…これは、僕の役目だ。”




