164. 衝撃の足音
164. Crashing Footfalls
“クソッ…俺トシタコトガッ…!!”
Fenrirの野郎、初めからそれが狙いだったという訳か。
こっちが仕掛けた罠に、奴がみすみす嵌ったのは、俺自身を皆から引き離す契機を作り出す為だったとは…
“頼ム、間ニ合ッテクレ…!!”
全速力で荒れたで泥地を駆けながら、耳だけは前方で俄かに隊列を崩し始めた同胞の足音を捉えようと意識を集中させる。
腹痛が、じわじわと今になって響いて来る。やはり少し、無理をし過ぎたようだ。
進撃を止めよの警告の遠吠えに、応答は無かった。
おかしい。誰か一匹の耳にぐらい、届いて良いはずだ。
たとえ初めに気づいたそいつが込められた意図を読み取れなかったとしても、一匹が吠え初めさえすれば、忽ち群れ全体に意識は伝搬して、警戒は促されていく。
もしかして、俺の遠吠えを、他の誰かのものと勘違いしているのか?
あり得るだろうか。仮にも、この群れの全盛を率いてきたボスの呼びかけに、何らかの信頼に欠ける声音が混じっていたとでも言うのだろうか。
“フェンリルウゥゥッ…!!”
後で、あいつらをきつめにどやさないと。
よりにもよって、あの大狼と間違えるなんてことがあるかよ。
俺達は、誰の呼びかけに対しても反応している訳ではない。
単なる挨拶を超え、素晴らしい合唱に誰かを誘いたくて堪らなくなった時、確かにひょんなことに触発されて歌い出す者が現れるが。
突如現れた、群れの誰の声でもない吠え声であれば、寧ろそれを警戒しなければならない。
そいつは何者だ?縄張りの外から迷い込んだのであれば、敵対者として遭遇する前に、大勢で警告を鳴らすだろう。
しかしそれも、相手の正確な位置と、頭数を把握してからだ。耳をしっかり向けて、静止しなくてはならない。
ただでさえ、俺達の遠吠えは、聞き手に実際よりも多くの狼たちを想像させるから。
加えてそいつが一匹狼であることなんて、あり得ない。
そいつは一匹狼であるが故に、元来遠方への意思伝達の手段である遠吠えを自発的に行わない。
必ず、何処かに思いを伝えたい群れ仲間がいる。
だから異なる遠吠えには、安易に反応してはならないんだ。
そんな排他性が、野生の規律として存在する。
この混同は、ある意味で俺の可愛い群れ仲間たちの慎重な態度であるのだ。
俺を信頼してくれている証拠でもある。
それを光栄なことだとか、あまり調子に乗るなよ、Fenrir。
お前の遠吠えなんぞ、俺とは似ても似つかないんだ。
人間からしてみれば、大差ないもんだろうが、俺からしてみれば、気になる点があの一吠えだけからでも列挙出来てしまうんだからな。
余りにも未熟で、蒼い。うちのガキの方がよっぽど冬景色に映えるほどだ。
威勢が良いのは、最初の低い音色だけだ。そこから高音へとスムーズに繋がって行かないせいで、他の狼たちは、どのタイミングで加わって行けば良いか分からないだろう。
全く他の狼たちとの遠吠えとして意識されていない証拠だ。
それに、最後まで低く伸びないせいで、何だか中途半端な印象を受ける。
もう一度吠えなおすときも、息継ぎが下手だ。
最初が、22秒。2回目で、もう15秒まで減っていたぞ。
全くもって、先輩狼から学んで来なかったそれだ。
そう、比べようもない。話にならないはずなんだ。
そう断言出来ただけに、俺の群れの間で、お前と俺が混同されることが、屈辱で堪らない。
ああ。その癖声音だけは、確かに俺に似た威厳を帯びているのが何よりも気に喰わない。
…そう。あの、一吠えが。
“……。”
俺は、お前の遠吠えを、一体何処で聞いただろう?
そんな覚えは、一度もないぞ。
どうして俺が、聞いたことも無い狼の遠吠えにイライラしなくてはならないんだ?
思い出せない。
長きにわたる闘争の最中に、あいつがそんな余裕を見せた瞬間があっただろうか。
“ナンダ?コノ記憶…”
遡っていく道中で、一瞬だけ気を失ったような、瞬きが混じった。
そ、そうだ。俺、あの忌々しい神に、脳天を撃ち抜かれて、身体を繋ぎ止める、痒い百足諸とも、燃やされてしまったんだ。
最期に…オ嬢、助けてって、言ったんだ。
それで、それから…それから?
思い出せない。
あまり休まった気はしていないけれど。
寝てたのか?俺。
でも、感じた。
オ嬢が、また俺に奇跡を起こしてくれたんだって。
ああ、気が付いたら、目が醒めてた。
ほんとに、ただ寝ちゃっていただけなのかなってぐらい、あっさりと。
“ソレデ俺ハマタ、アノ狼ト喧嘩シテイタンダ。”
何だか、目の前のあいつは、今までとは違って見えたな。
直感的に、分った。文字通り生まれ変わったんだって。
別の狼の毛皮を、纏っているようだった。
ちょっと涙目になって、けど嬉しそうにブツブツと何かを呟いていたんだよな。
それに引き換え、こっちはどうだ。
何か知らない狼の毛皮が、首から上に引っ付いてて……
四六時中、俺の耳の後ろで、囁いて来る。
“マ、マサカ…?”
追憶の不自然な空白に、ようやく合点が行く。
“テメェッ!!一体ドレダケ俺ノ脚ヲ引ッ張レバ気ガ済ムッテンダ!?”
俺は自分自身に対し、独り言とは思えない声量で罵倒を浴びせた。
信じられない、全然気が付かなかった。
大狼の毛皮を取り込んでしまったばっかりに、俺は己の声音をこいつによって変質させられてしまっていたのか。
“ソレハ此方ノ台詞ダッ!主ガ我ガ仔ラヲ解キ放ツヨウナ愚行ニ走ラナケレバ、コノヨウナ事態ニハ陥ラナカッタ!!”
主は奢り、油断し過ぎたのだ。
我が幾らこの森に歓迎されているからと言って、敵陣であることに変わりはないのだ。
此処は、人間の謀略が及んだ、奴らの縄張りであると心得よ。
“畜生、ドウシテコウナッチマッタンダ…”
群れと群れとが、ぶつかり合い、遂に混ざり合ってしまった。
群れの足音が、一瞬想定した倍近くに増え、ぐちゃぐちゃに拡散していく。
間違いない、ヴァン川から、迎撃されてしまったのだ。
“ヤメロオオォォッッ!!”
“オ前タチ!!戦ウベキハ…ソ奴ラニ在ラヌノダゾ!!”
そいつらは、人間によって差し向けられているに過ぎない。
真の名の宿敵は、ヴァン川の向こうにおると、教えたはずだ。
なのに何故…
俺が、Fenrirとの闘いに明け暮れていたせいか?
変な触発を受け、あいつらも、狼と対峙したならば、どちらかを殺すまで終わらない勝負に身を投じてしまったと言うのか?
だとしたら、だとしたら、それは最早、狼ではない。
皆を、この世へ無理に引き連れてしまった我の責任だ。
“何ト言ウコトヲシテシマッタンダ…”
頼む、どうか、傷つけあわないでおくれ。
お前たちは、ちゃんと狼どうしの決着のつけ方を、心得ていような?
“……?”
な、なんだ?
足音が、ちょっとずつ、減っていくぞ?
どうした?何故、走るのを止めた?
“アウゥオオォォォーーーー…ウオォォォォーーーーーー……!!”
“皆、答エテクレェッーーー!!”
群れ仲間が、次々と歩みを止め、その場から動かなくなっている。
何が、何がどうなってる…!?
交戦中なのか!?或いは…まさか…
“ソ、ソンナ……”
Fenrirが仕組んだ罠は、俺の愛した狼たちすべてを絡めとり、
到頭俺までもを、追い込みつつあったのだ。