162. 武器を取れ 6
162. Pick It Up 6
“やる気が無いなんて、言っていられなくなって来たな…”
加速度的に速さを増すGarmの動きに、到頭俺は、対応の動きを本格的に勘に頼らざるを得なくなってきていた。
統合性を失った四肢の動きは、本来彼の動作をぎこちないものにし、それ故俺の獣に対する正確な予測の裏を書く特効を持たせるはずだった。
それは言ってしまえば、騙しの域を出ない。
敢えて本来のペースを崩すことで、此方のミスを誘おうとしているのだから。
俺が適切な対応を身に着けさえすれば、忽ち生まれたての仔狼と大差なくあしらえる。
実際、Garmが急所を狙わず顔面に齧り付くことに躍起になっていたお陰で、俺は少しずつ奴の癖を学習し、
ぎょっとするような予想外の身体のうねりにも、どうにかして喰らいつき始めていた。
しかしそれが洗練され、一匹の有機体として機能し、
しかも異常な成長速度で神域にまで達し始めたとなれば…
話は別だ。この狼は、俺にとってやはり最も与し辛い強敵になる。
“コノ森ハ、良イナア。狼ニ味方シテクレテイル。”
そう呟くのに、同感だと頷いてよいはずなのだが。
こいつはやっぱり、俺が羨むべき天才なのかも知れない。
“力ヲ貸シテクレルノカ?アリガトウ。”
彼がそう意識せずとも、自然とSiriusの面影が残像になって現れて来る。
どんな地形も、瞬時に己の利として、利用してしまう。
きっと誰もが力を貸してやりたくなるような魅力が、この狼にはあるんだ。
…辺りに立ち込める、白樺の林が、表情を変えた。
彼らは本来、俺たちに平等であるはずだった。
何処までも好きなように駆け巡ろうとする巨体を、根を地に張り巡らせることで、鬱蒼と立ち並ぶことで、遮ろうとする。
それが、狼に対する制約であると同時に、恩恵であるのだ。
見返りとして、人間から群れを匿い、獲物を群れに与えてくれる。
そして最も良い関係であると思うのが。
お互いにそれ以上の干渉をしない、ということだ。
俺達は彼らを燃やし尽くさないし、彼らは俺達を追い出すことはしない。
その均衡が、破られようとしている。
ぱきんっ…
生木が、折れる音がした。
“来る…!!”
Garmの巨体が、宙に浮いている。
蹴ったのだ。
ばらばらに動かして良くなった四肢のうちの一本を捻り、俺の視界から外れた位置から、加速してきた。
滑空のスピードも相俟って、それは殆ど一瞬で迫った。
“くっ……!!”
顔を背けるのが、僅かに遅れる。
Garmの前足が、俺の額をがっちりと踏みつけた。
仮に俺の牙がまだ使えたとしても、間に合っていなかっただろう。
加重を受け流し、体勢を立て直すと、彼は再び視界から姿を消していた。
何処だ?何処に行った…?
眼球を左右にぎりぎりまで回しても、影は降りない。
着地の音が……しない?
“まさか…!?“
ぺきぃっ…
“……!!”
音のする方向に振り向いたって、そこにはもういないことぐらいは分かっていた。
そのまま、まっすぐ俺のケツに噛みついて来るつもりなのだから、態々顔面を晒す形になるだけだ。
“だったら…!!”
俺は再び前脚を宙に浮かせ、仰け反った状態で後ろ足を蹴り、背後へと跳躍する。
身体だけが覚えているサマーソルトだったが、
幸いにも、貴方がいない今でも使えた技らしい。
瞬時に背後の視界が、逆さになって飛び込んで来る。
“……?”
だが、どうしたことだろう。
そこにも、Garmの姿は見えなかったのだ。
“ソウクルト思ッタッ!!”
その声が聞こえたのは、背後だ。
俺が腹を天に晒している、その真下にいる。
…こいつ、俺が飛び上がったのと同じタイミングで、自分もコピーに舵を切りやがったのか!?
“グルルルルゥゥゥゥッ!!”
“ぎゃうぅぅっ!?”
首の後ろの毛皮を掴まれた。
身体に一瞬力が入らなくなり、どのタイミングで着地すれば良いのか、分らなくなってしまう。
そのまま俺は物凄い勢いで振り落とされ、背後の大木を何本もなぎ倒しながら吹っ飛ばされてしまった。
どうやって息を吸えば良いか忘れ、半ばパニックになりながら立ち上がる。
“こいつ…!!”
既にGarmは猛進で距離を詰め、再び自らの四肢のうちの一本を、樹木に喰い込ませている。
ミシッ…!!
“ぐっ……!?”
進路が、全く読めない。
樹木のしなり具合が、それぞれ違うんだ。
幹の太さや、年輪の若さ、彼が足を掛けた位置や、爪を喰い込ませた角度まで。
様々な要素が絡み合って、Garmの身体が一本の大木が折れる音と共に弾き出される。
恐らくは、彼自身も操れていない。
ピンボールの要領で、何度も高速で衝突しながら、俺のすぐそばを掠めて通り過ぎる。
一回一回の確率は低くても、そのうちの一発でも、ヒットすれば良いと思っている。
だから、当然俺にも読めない。
バキッ…ベキキッ、パキンっ…!!
周囲の雑木林をなぎ倒し、奴は飛び掛かって来る。
“ひぎゃああああぁぁぁっ!?”
そして到頭、俺はGarmが目の前まで迫っているにも拘らず、一切反応の出来ない状況を許してしまったのだ。
顔の半分が吹っ飛んでしまったんじゃないかと思うぐらい、凄まじい衝撃。
左耳が抉れたようで、キーンと耳鳴りがして、聞こえなくなる。
さっきは周囲の白樺たちが、吹っ飛んだ俺を受け止めてくれていたけれど。
それも今はぐっと密度が落ち、俺は地面を何度も擦って転がった。
“あ゛あ゛っ…あ゛っ、ああぁっ……”
…立ち上がれない。
悔しい。
こんなに奇跡を信じて、頑張って来たのに。
なんて、そんな柄じゃあないけどさ。
ずっと俺のことを見守ってくれていると思っていたこの森に、裏切られたような気持だったのだ。
何故だ?何故、みんな、この狼の味方をする?
狼たちも、この森も。運さえも。
みんな、みんな行ってしまった。
一匹ぼっちだ。
ああ、こんなことになるなら、あいつのことを冷たく突き放すんじゃなかった。
俺は、あいつがいなければ、とんだ不幸者なのだ。
こいつはそれでも、俺に不用意に近づかない。
“サア、コレデオ前ニモ、逆転ノ目ガ生マレタハズダ。”
“何を…言ってる…?”
“諦メルナ。”
“サッキミタイニ、俺ノコトヲアノ刃デ切リ刻ンデミロ。”
有利な盤面を手放すのは惜しかったから。
念には念を入れ、柄を咥える力を少しでも削いでおこうと思って、噛みついたのだが。
それでも振り回す力を制御するには、十分な筋肉と感覚が残っている筈だ。
“……。”
周囲を見渡すと、それは確かに、あの大剣を振り回すのに十分な空間が生まれているように見えた。
俺が一度、勝敗を引き寄せる武器を手放したのは、このような密林において、それが自身の機動性を大きく損ねると判断したからだった。
だが、こいつが必要以上に暴れてくれたお陰で、闘技場は完成していたのだ。
言い換えれば、此処から逃げない限り、Garmは先までの不規則な連撃を続行できなくなっている。
構図は、逆転している。
俺が、それを狙って、耐えているように。
あいつには見えていたんだ。
布石である、と。
素晴らしい読みだ。
流石だと思う。
喋る元気が無いから賞賛の意を、尻尾から汲み取ってくれ。
だが…
残念だったな。
“……?”
“ヒョットシテオ前、簡単ニ懐カラアノ武器ヲ取リ出セル訳ジャナイノカ…?”
今更、気づいたらしいな。
お前の、その度肝を抜かれた表情を拝めただけでも、抵抗した甲斐があった。
“オ前ハ本当ニ、無力ナ負ケ犬ニ成リ下ガッテシマッタトイウノカ!?”
だから、言っただろう。
お前は俺と同じで、天才の理論の飛躍に、脚を取られ過ぎなんだ。
さっさと、息の根を止めた方が良いぜ。
俺の、火種が…消える前に。
“……ナルホドナ。”
“……?”
“ソノ為ノ、時間稼ギッテ訳カ。”
“確カニオ前ヲココデイタブルノハ、終ワリニシナクテハナラナイヨウダ。”
俺は、Garmのように嗤った。
“間に合うと良いなあ…?”
あたかも、それが狙い通りであったかのように。
“クソガッ……!!”
悔しそうに牙を剥くので、俺は余裕ぶって立ち上がって、尻尾の様子を確かめるなどして、見せつけてやる。
“そんな悪態を吐いている暇があるのか?”
あいつらを、見くびらない方が良いとだけ、忠告させて貰おう。
Garmが解き放った、ヘルヘイムの狼の群れの足音。
それとは別に、もう一つの群れの足音がする。
ヴァン川の、向こうから。
“…これは、総力戦さ。”
“俺も、一匹で戦ってる訳じゃあないんだよ。”