162. 武器を取れ 3
162. Pick It Up 3
“今スグニ、殺シテヤルゾ。”
不敵に嗤うその表情には、再びGarmの意志が垣間見えていた。
元来、逆境において好戦的であるからなのか、或いは本当に切り開いた腹から零れ落ちた肉片の痛みを、何とも思っていないのか。
判断しかねてしまうぐらいに、その笑顔が不気味で、思わず視線を逸らした。
言われた通り、震える四肢を突っ張って立ち上がるも、此方は一切の戦意を身に纏えていない。
初めから、この口元に生え揃った牙を駆使するつもりは無かったが。
これでは人間で言うところの、丸腰であったのだ。
“ト、言イタイトコロダガ…”
そんな俺を見かねたのか、彼は構えていた低姿勢を解いて、その笑みをますます嫌らしく歪ませる。
“コレデハ、オ前ヲ殺セナイナ。”
“……?”
“抗ウ意志ニ、欠ケテオル。”
最悪の形で、潜在的に自覚していた欠点を突かれた。
何というか、中途半端に才能に恵まれた者の自尊心だ。
それを指摘され、裏をかかれまいとしても、逃れようが無かった。
その恥辱に、震えているのだろう?
“それが、そんなに…悪いことかねぇ…”
寧ろ、好都合なんじゃないか?
お前が勝ち誇ったように、群れの願いの成就は、近そうだぜ?
それに、俺が抱えている矜持は、そんなに大層なものではないさ。
何度目か分からない。俺はお前の従える群れに勝ってはならないのだという絶望に、押し潰されてしまいそうなんだよ。
“フッフッフ…オ前ハ何モ、悟ッテナドイナイ。”
“言ッタハズダゾ。”
“俺ハモウ、オ前ヲヘルヘイムヘ迎エ入レル気ガ無イトナ。”
分るか?
お前にそんな無気力な態度を貫かれては、困るんだよ。
無抵抗なお前の毛皮を、この毛皮の断片よりも細かく、びりびりに引き裂いたなら、それはそれで晴れやかな気持ちになることだろう。
だが、そのような死は、貴様が俺たちの縄張りに再び迎え入れられてしまうことを意味する。
俺は、群れの皆と、それからオ嬢を傷つけるような真似をしたお前を、その一員として絶対に認めない。
地獄界の番狼として、貴様を彼女の眷属から取り除きたい。
良いか?Fenrir。
お前は、俺と死闘を繰り広げなくちゃならないのさ。
名誉ある死とやらの、抱擁を受けるのだ。
それが、楽園へと至るオーロラの上を歩くための翼になる。
きっと、素晴らしいぞ。
だからお前は、自身の本能を滾らせるべきだ。
“永遠ニ、オ別レガデキルヨウニナァッ…!!”
“っ……!!”
彼の思惑通り、俺は咄嗟に、飛び掛かって来たGarmの凶刃に対して、急所を晒さぬよう低く身構えた。
―殺される。
そのシグナルが、眉間で熱く疼く噛み傷の辺りで弾けて、俺は身を捩って顔を背けた。
瞬歩で間合いを詰められるも、彼の噛みつきは虚しく宙を切り、ガツンと牙が噛み合う音が耳元で響く。
その直後に、巨体が通過したことで吹き上がった爆風が、遅れて毛皮を激しく揺らす。
“ソウダッ!ソレデ良イゾ!”
Garmは嬉しそうに叫ぶと、にんまりと微笑んで舌を垂らす。
“サア来イ!”
そしてこれが紛れもない遊びへの誘いであるとして、彼は舐め切った行動に出た。
“こいつ……!”
自身の右半身を此方に晒し、素知らぬふりをしてそっぽを向くと、魅惑的に尻尾を振ったのだ。
それは平静を装って垂れていながらも、先っぽをくるりと控えめに吊り上げ、力強く揺れるのを必死に抑えている。
遊ぼう、あそぼ!!
こんな遊びの誘い、受けたことなんてない癖に。
狼の言語として、訴えかけてきやがる。
低く構えて、じっと頃合いを見計らって、自分を獲物として駆け寄って欲しいのだ。
闘う気力としての牙を失った、
俺の本能を、おちょくっている。
あってはならない喩えではあるが。
猫じゃらしのように、注視してしまっている自分がいて情けない。
激昂すれば思うつぼだから。
俺は、無気力な青年の顔を繕うので精いっぱいだった。
“ふざけるなっ…!俺はそんな誘いになんか乗らないっ!!”
“ナンダ、面白クナイナア。”
この闘いは、悲壮感が伴うべきものであるはずだ。
お前が、狩りを遊びと捉えるようなノリで、仇の命を正しく奪おうとしたって。
俺はとても、そんな誘いを受けられるほどに、血に酔ってなんかいないんだ。
“別ニ、オ前ノ理想ナンカ、聞イチャイナイ。”
Garmは垂らしていた舌で鼻をぺろりと濡らすと、そのまま大口を開いて上唇から口脇の辺りを滑るようにして舐めた。
“オ前ノ中ニ、チャント俺ニ対スル殺意ヲ見イダセレバ、ソレデ十分ナンダ。”
“……。”
“なあ、Garm。一つ、聞いても良いか?”
“ナンダ?俺ヘノ憎悪ヲ確カメル為ナラ、幾ラデモ構ワナイゾ。”
“お前自身にも、その覚悟があるのか?”
“……ト、言ウト?”
お前にも、楽園へと向かう覚悟があるのかってことだ。
だって、俺と命を奪い合うということは、幾らお前に負けない自信があったのだとしても。
何かの間違いで、俺に殺される可能性はゼロじゃない。
それは、お前が縄張りを捨て、群れの仲間たちに永遠のお別れを言うことを、意味するんじゃないか?
それを、死そのものよりも、怖いと思ったことは、無いのか?
それを、正直に、教えて欲しい。
“……。”
挑発的に揺らしていた尾は静かになり、目を伏せて俯く。
Garmの核心に響いたのが一目見て分かった。
余りにも無防備であったので、好機と捉えることも出来たのだろうが。
俺には変わらず、この大狼を出し抜いてやろうという気概はこれっぽっちも無かったのだ。
“俺ハ…オ嬢ノ寵愛ヲ受ケタ大狼ダ。”
仮に殺されたとしても。
彼女が俺に飽きでもしない限り。
俺は永遠に、地獄の底に縛り付けられたままさ。
それで、もし仮に。
俺が天国への追放を経験するようなことになっても。
それはそれで、心の底で願い続けていた夢でもあるのさ。
“ダカラ、俺ハモウ、逃ゲタリナンカシナイ。”
“……。”
それが、Garmの答えだった。
“武器ヲ取レ。”
今度こそ、見切ってやる。
もう一度、あの大剣が描く切っ先の軌跡を見せてみろ。
俺は、力なく首を振って後退る。
出来る訳が、無かったから。
“ソレガ出来ナイト言ウノナラ。”
“俺ハオ前ノ牙ヲ、無理ヤリニデモ引キ摺リ出スマデダ。”