161. 鸚鵡返し 3
161. Back-Tracking 3
Garmが入水したと思われる河川は、ヴァン川を遥か上流で共有している、いわゆる支流だった。
もし彼が切羽詰まっていなくて、そしてこの周辺の地形に疎いのであれば、これを辿って手掛かりとしただろう。
だがそうはしなかった。奴は、俺から姿を晦ます為だけに、この水路を使ったのだ。
川辺で途切れた血痕に鼻先を近づけ、同胞のそれであることを確認する。
「欺かれている訳ではないよな…」
彼自身が、負傷していることもまた、確かなのだ。
自分自身も河川に飛び込むべきかについては、意見が分かれるところだった。
論点は、此方の居場所を彼方に悟らせるか、になる。
基本に忠実を心がけるならば、まだ距離の離れている相手に対しては、此方の存在を知らせることなく距離を詰めたい。トロットぐらいの速さでさえも、狼の耳には丸聞こえであるだろうから、実はこの水脈を利用して一時的に足音を消すのは有効な手段であるように思われたのだ。
慢心こそしないだろうが、彼方が回復を図りつつヴァン川へ向かおうとしているなら、その油断を突ける。
此方を待ち受ける彼の策略があったとしても、対応しやすいだろう。俺自身の安全を担保するプランだ。
首元の傷が染みるので、昔からあんまり泳ぐのは好きでは無いのだが、今はそれさえも気にする必要がない。
反対意見は、一刻も早くGarmとの距離を詰めてしまい、相手に振り切りの可能性を捨てさせる強硬手段だ。此方の方が、ヴァン川対岸の安全を考慮した選択肢になるだろう。もし此方がのんびりと河川を下っている間にGarmが休息を完了し、再びあのスピードで爆走を再開しだしたら、俺は完全に遠回りをして奴を休ませただけになる。
その隙さえも与えずに、飽くまで此方の遊離を押し付け、確実にこの森で狼を仕留める。それだけの体力差が、今のところはまだ与えられていると考えるのだ。
それを見誤っていた場合は、態々相手の懐に飛び込むことになるのだとしても。
「さあ、どうする…主よ?」
ただ、どちらも、俺の筋書きからは外れている。
Garmが今歩いていると思われるあの近辺を、大剣の転送先には選んでいない。
つまり、まともに牙で噛み合うことは、出来ないのだ。
あいつのように前足で頭を踏みつぶし、それから爪で胴を掴み、押し倒して、最終的に腹を晒させる感じになるだろう。
今の戦いを有利に進めるか、最終的なGarmとの攻防を睨むか。
犠牲にしなければならない手札は…?
「……此処でけりをつけます。」
「良かろう。」
上手くやれば、ヴァン川に大狼の影を見せることなく、この事件を終息へ向かわせられる。
できれば、あいつらに、Garmの姿を垣間見せるようなことはしたくない。
俺は、我が狼の意見を退け、自らの意志を押し通すことを選んだ。
時間が惜しいのもあったのだろう、彼はそれ以上食い下がる素振りは見せず、俺に身体の一切の統制権を譲った。
「尊重して下さり、ありがとうございます。」
濁流を一つ飛びで超えると、対岸沿いを下流に向かって勢いよく走り出した。
周囲への警戒を怠らずに進めたかったから、二匹で協力するあの走法はもうしていない。
Garmの足音が、一度不自然に止まったのだ。
「気付いたな…」
相手もこれで、此方の決断を了解したことになる。
しかし、またあの大挙して走るような足音は一向に鳴り響いては来なかった。
―走れないのだ。
それは、彼が示した消極的な意思表示に他ならなかった。
つまり、俺の選択肢は正しかったことになる。
「Fenrir…」
ある種の賭けに勝った安堵に、俺は息を短く吐く。
「まだ分からぬ、耳を強く立てよ。」
「ええ、分かっています…」
手負いの獣ほど、手強いものはないのだ。どんな抵抗をしてくるか分からない。
それに、俺だって、この牙で噛みつくことを封じられているようなものなのだから、一方的な闘いには、間違ってもならない。
だが、もうすぐそこまでその時が迫っているのを感じているせいか、自然と尻尾が高く保たれていくのだった。
程なくして、再び血痕を発見した。
此処が、Garmが河川の流れから這い出した地点であるに違いない。
局所的に水が芝を濡らしており、彼が堪えきれずに毛皮を震わせてしまったことが伺える。
近い…限りなく、近くに、
もうすぐそこに、いる。
血痕は、そこで終わっていたが、
代わりに付けられてまだ若い足跡が、芝に隠れた土を抉っている。
そして、足音は一切、聞こえなくなっていた。
俺は、自分の息が聞こえなくなるぐらい、ゆっくりと呼吸をしながら歩いた。
全神経を集中させ、鼻先をその足跡に近づけたまま、丹念に辿って行く。
「主よ、あれ…!」
数分もしなかったと思う、追跡は案外あっさり終わりを迎えた。
茂みを越えた先に、思いがけぬ段差があって、前脚を踏み外しそうになった。
ヨルムンガンドが残した爪痕が、至る所にこうして残っているので、獣道以外はけっこう用心していないと、記憶に頼り過ぎて、脚を取られそうになる。
見れば目の前は、小さな崖になっており、局所的な木漏れ日が、その窪みに差し込んでいるではないか。
滑落、というほどではない。高さにしてみれば、2、3メートルか。
だが恐らく、こいつも同じことをして、踏みとどまれなかったのだろう。
目の前には、狼が一匹、横たわっていた。
「こ、れは……?」
俺は思わず耳を垂らし、尻尾をしゅんと萎ませてしまった。
もう、力尽きている。
ぴくりとも耳は跳ねてはくれないし、腹の毛皮は膨らみも凹みもしない。
やはり、あのペースで逃げ切ることは、不可能だったのだろう。
強靭な意志だけで、どうにか保たれていた糸が、安息を得たいという誘惑によって、切れてしまったに違いない。
動揺に、目が泳いだ。
我慢できなくなって、呼吸が荒くなって、発狂しそうになる。
どうやって、この事実を受け入れて良いか分からない。
「F、Fenrir……?」
「分かっておる。これは、まずいな…」
…どう考えても、おかしい。
この狼、‘普通の’ 大きさだ。
俺達が辿って来た足跡と、符号しないぞ?