161. 鸚鵡返し
161. Back-Tracking
大剣は、然るべき場所へ送り届けられるよう、宛先を正確に綴っておいた。
正直に言って、それが後の数話で活きて来るという確信は少しも無かった。
俺は予言者でも無ければ、凄腕の戦略家でも無かったから。
「だが、必ず……」
俺がやった通りになるのではなく、
俺が思った通りなるのだ。
そんな諦観が、俺にあの手を打たせたのだと思っている。
次に大狼と接触した時、彼を殺せる凶器が口元に咥えられていたのでは、駄目なのだ。
あれは、もっと別の場面で、違う使われ方をすべきだ、そう思っている。
彼の首を獲ったとして、それは何の解決にもなりはしない。
Garmは不屈の精神と、それを支えるだけの恩寵をHelから受けた、狼の最高峰だ。
貴方にそう言わしめたのだ。
嫉妬してしまいそうになる。胸元が焦げるように熱いのです。
俺が必死に抵抗した所で、どうにかなるような相手ではない。
それでも、お前が抱いた大志を諦めてくれるには。
俺の大志を、認めてくれるには。
情に訴えるようで、悪いな。
でもお前は、断じて怪物なんかじゃないから。
こうするのが、良いと思うのだ。
聞き耳を立てられていては、俺は更にその裏を書かれるかも知れない。
だから、最終局面は貴方にも相談することはせず、独断で決めた。
「大丈夫、必ず思った通りに、物語は進むから。」
そう言い聞かせて、私は黙り込んでいた貴方に向けて、同意を求めるように尻尾を振ったのだった。
「ちぃっ…!主よ。少し、遅れを取り過ぎたのではないかっ…?」
「はぁっ、はぁっ…!しかしっ、これ以上スピードは、上げられないっ……!」
それから、あの追いかけっこの続きをせがむようにして猛追を仕掛けていたのだが、未だ追いつけずにいる。
俺は今、自分が有している以上の馬力を借りて、高速に四肢を回転させていた。
目撃者に客観的で、詳細な描写を、依頼したい所存だ。
ふわふわとしていて、俺の身に何が起きているのやら、分からないのだ。
主観的には、誤解を恐れず言えば、Fenrirの足を貸して貰えているような感覚、と言えば良いだろうか。
だが、少なくとも言える確かなことは、
これは狼がやって良い、合理的な走りとはかけ離れていることだ。
狼に限らず、人間の走りであってもそうだ。
長く、それでいて速く走る為の秘訣とは、
出力と出力の間に現れる、僅かな休息の瞬間をいかに確保できるかだと思っている。
例えば、今、この一歩。
右後ろ脚で地面を蹴ってから、腹をぐわりと撓ませ、次に左前脚の爪先が路面を捉えるまで。
その間に、俺はできるだけ、着地の姿勢を済ませなくてはならないのだ。
前後の軸足のスイッチを、瞬時に完了させて、待つ。
ちゃんと、サボるのだ。
すると、俺は次に左後ろの腿脚に力を込めるまでの時間を、宙に浮いたままで休むことが出来ることになる。
ほんの一瞬だが、これが全身の筋肉に齎す恩恵は計り知れない。
これが、‘ずっと走り続けていても疲れることが無い’という一見するとあり得ない主張を成り立たせるこが出来る僅かで貴重な回復量なのだ。
ずっと力いっぱいに全身の筋肉を強張らせ、力任せに振り回したり、
脚の回転ばかりを優先させて、ぺたぺたと地べたを這い擦るように走るのでは、永くは持たない理由はこれだ。
俺も、あいつも、体重に比して、同じ程度の筋肉量しか持ち合わせてはいないのだ。
それが…俺は今、このセオリーを破って、走ろうとしていることになる。
至れり尽くせり、と言えば良いのか、世話焼きが過ぎる、と言えば良いのか…
俺の背後を、貴方が一緒になって走ってくださっているのを感じたかと思うと。
加速が必要となるたびに、尻の辺りに額をぐいぐいと押し付けて、自分をトップスピード以上に押し上げてくれているのだ。
人間だったら、怯えを感じて仰け反っていそうなぐらいまで、俺はギアを無理やりあげさせられ、制御不能な領域を体感させられる。
我を、乗りこなして見せような?
そう試されているような気がして、俺は何とか爆速で通り過ぎていく獣道の風景に対処し続けていた。
しかし、それでもFenrirはスピードに満足できなかったご様子で、今度は俺の休息の時間さえ邪魔しに来る。
「な、何するんですかっ…!?」
「良かれと思ってな。」
俺が後ろ足の蹴りを済ませた直後、彼は俺の脚を勝手に借りて、宙に浮いた身体を更に蹴り上げ、半歩手を進めてしまうのだ。
何と表現すれば良いのだろう、半周期分だけずれて、もう一匹の自分が身体を動かしている。
その為に、脚音が2倍に増えて、俺は合計で8本もの脚を駆使して爆走体勢に入っているのだ。
「こんなの…訳が分からないっ…!!」
それでは俺が休む暇がないはずなのだが。
体力までもを、Fenrirが肩代わりをしてくれている。路面がとりわけ知悉しているコースであるのが幸いして、何とか捌き切れる範疇に収まっていた。
「Hoo!!」
「なんてマシンスペックだ…!」
危うくつんのめりそうになるのを、どうにか尻尾でバランスを取って回避する。
泥が跳ねて、頬の毛皮に当たると、痛いぐらいの勢いだった。
完全な一致からの遊離にさえ思えるのだが、寧ろそれこそがもう一匹のFenrirの自我を示しているとも言うことも出来ると思うと。俺は我が狼との憧れの散歩を、堪能できているのかも知れない。
「くそっ…どうなってるんだ…?」
にも拘らず、Garmの方が速いのだ。
走り続けられるギリギリのラインを、とっくに越えている。
狩りであっても、こんなスピードは出せない。前方があやふやになり、周囲の情報を綿密に捉えられないぐらいに無理なペースは、群れにとっても迷惑になるから。
それなのに、ちょっとずつ。
凄くちょっとずつだけれど。
俺、コーナーで、離されている。
これはどう考えてもおかしい。
同じ大狼の名を与えられたはずなのに、なんで……?
「やはり、この足音、でしょうか…?」
彼が纏っている、無数の足音。
それはとても小さく、大狼の躯体を運ぶのには非力過ぎた。
しかし、彼を構成するだけの断片が、総出でボスを後押しすることを決意したなら。
彼は俺と同じように、もう一匹のGarmの力を借りながら、
今では決定的な差を生み得るその恩恵を、更に彼らの力によって身に纏っていることになるのだ。
「羨ましい…限りです。」
それは、恐ろしい予感を示していた。
Garmの中で、無数の自我が芽生え始めているということだったから。
俺と同じように、いや、俺以上に。
あの大狼には、頼もしい仲間がついている。
その差が、彼の強さなら。
俺はどうしても、Garmには追いつけない。