160. 化膿
160. Putrefy
「な、何か止血できるものは……」
彼女の股から止め処なく漏れ出す水っぽい血が広がるのに、俺はどうにか狼狽えた素振りを見せまいと努めていた。
そもそも、この出血は抑えて良いものなのだろうか。彼女の中から取り除かれるべきものなのだろうか。
それさえ定かでは無かったが、このままにしておくのは良くないということぐらいは分かった。
彼女が痛みに対して寛容で、鈍感すぎるせいだろうか。あまり苦しんでいる様子が見られない。
犠牲の偶像と成り果てた姿が、俺の判断を鈍らせていたのだと思う。
その方面に関する知識が、全く持ってない。
「堕ろさないと―…」
思わず口走った言葉に、自分が驚いた。慌てて口を噤んできつく結ぶ。
な、なんてことを言いだすんだ、俺は…
しかし、彼女のことを思えば、正しいのには違いない。
助産師のような方が、必要なんだ。
常日頃にそのような憂いを抱いて来なかった浅はかさを悔やんでいてもしょうがない。
真っ先に思い浮かんだのは、ヴァナヘイムに住まう神々に助けを求めることだった。
恐らく、アースガルズでそうだったように、村中の出産に立ち会っているであろう年配の女性がいる。
その方の元へFreyaを連れて行けば、時すでに遅しであることを即座に悟りつつも、直ちに然るべき措置を施してくれるはずだ。
少なくとも、この部屋で途方に暮れ、Fenrirの帰還を待ち惚けているよりはましだろう。
よもや、ヴァン川よりこちら側でHel以外に行く手を阻むような脅威が立ち塞がることはあるまい。
そうと決まれば、こうしてはいられない。
彼女に回していた左腕を解き、虚ろな笑みを浮かべる頬に添えた。
「一緒に行こう、Freya……!」
急ぐに越したことは無い。
出来ることなら、彼女をベッドに寝かせて楽な姿勢をさせてあげたい。
ヴァナヘイムから此方に来て貰いたいぐらいなのだが…
まあ、無理は話だろうと、分かり切っている。
彼らがヴァナヘイム西域に帰還を果たした新ヴェズーヴァに近寄りがたく思っていることは承知しているし、理解もしているつもりだ。
住民の9割が狼であり、荒れ果てた居住地の至る所を根城としている幽霊街だ。
余程の用事が無い限り、足を踏み入れたいとは思わないだろう。
俺が大声で街中に呼びかけ、人相も分からぬお目当ての人物を探し当て…
そして一緒に来て貰うよう交渉する。その時間さえも今は惜しい。
それにFreyaは、俺と一緒にいて欲しい、と言ったんだ。
僅かな時間でさえも、それは許されないことだという危機感があった。
今俺が彼女の目の前にいることだけが、彼女をこの世界に至らしめているような気がしてならなかったのだ。
言い換えれば、俺がほんの少し、ほんの少しだけ目を逸らしただけで。
ヘルヘイムへと、地獄の使者が、彼女を連れ去ってしまうような気がしてしまって。
喩えるなら、峠を迎えた病床の人から、片時も握った手を離せないような。
そんな命綱の役目を負わされていたのだ。
だから、とても耐えられなかった。
あいつが迎えに来る時には、ちゃんと君と一緒にいたい。
…当然、Fenrirの加勢に今すぐ向かいたい気持ちも、同じぐらいあった。
あいつが一匹でGarmに立ち向かい、致命傷を負わされている姿を想像しただけで、胸が潰されそうになる。
俺が彼らの為にしてあげられることは、何一つないのだけれど。
本当であれば、Fenrirを再び勝たせてやるために、俺が戦場に立つことが一番なのだと思っていた。
けれど彼は、それを拒んだのだ。
そういう決着では駄目なのだと、彼なりに描いていた終わりがあることを、あの時初めて知った。
そして俺は彼にそう伝えた通り、君が成りたい存在に成り果てることを、心から応援してあげたい気持ちに、少しの揺らぎだってない。
だから俺は無力にも、彼をこうして遠くから応援してあげることしか出来ないのかな。
「そんな訳、あるもんか…」
「あるもんかよっ…!!」
彼が闘うときとは、いつだって一匹なのかも知れない。
だけど、一匹ではないことも。
わかるだろう?Fenrir?
待っていて、Freyaの身の安全を確保出来たら。
必ず君のことを助けに向かうから。
急がなくては。
どちらかを見捨てるだなんて、そんな悲劇を初めから描いていてどうする。
どちらも、救うんだ。
初めから、そのつもりで俺はこの物語を始めたんだ。
「ちょっと待ってて……」
彼女を包むような何かが欲しい。
自分が身に纏っていた外套の留め具に手を掛けたが、振り返って見れば、裾はボロボロで、丈は腰下まで短くなってしまっていたし、こんなに霜の血が染みた布で彼女を覆うのには緊急時であっても気が引ける。
俺は使い物にならない右手と右脚をだらりとぶら下げ、Freyaの座っていたベッドのシーツを掴み取って、二つの角を彼女の首元に回して結び、羽織らせる。
「Freya。おんぶ、できるかな?」
彼女が両腕を俺の首に回してくれれば、運んでいけるだろうと考え、背中を向けてしゃがみこむ。
実際、寄りかかってくれたFreyaの身体は、毛皮のマントを背中に纏うよりも軽いように思われた。
これなら、いけそうか…?
牛歩のようにのろいが、こうやってヴァナヘイム城門前まで、脚を引き摺って歩くしかない。
「っ……。」
しかし、立ち上がろうとしたところで、そのまま上体が前に傾いてしまい、俺は四つん這いに伏せてしまう。
右ひざを直に床に着け、危うく吐きかけた悲鳴を飲み込む。
力が…入らない。
肝心の自分が、枯渇しかけているのだろうか。
「早くっ…早くしないとっ…」
Freyaが漏らす吐息が熱く、苦しそうだ。
お願いだ、もう少しだけ、我慢してくれ。
Fenrirが、今窮地に立たされているような予感がする。
お願いだ、どうにかして、切り抜ける術を見つけるんだ。
何しているんだよ。
泣いている場合か?
時間がないって、言っているだろう!?
「ああっ…あ゛あ゛っ…あ゛あ゛っ…!!」
もう、半狂乱というか。
やけくそになっていた。
結局誰も救えそうにないんじゃないか。
冷たい疑念が首元で疼いて、窒息しそうだ。
「誰か…誰かぁっ、…」
「助けてぇ…」
その言葉を、一番あの狼が漏らしたかったはずなのに。
俺は、彼に与えられた時間さえをも、無為に費やそうとしていたのだ。
Freyaを背中に乗せたまま、身を血だまりの上に横たえ、楽な姿勢で寝転がってしまう。
少し、休んでからにしよう。
回復したら、彼女を連れて、歩ける、はず…
そう心に言い訳を垂れ、瞼を閉じようとした。
しかし、その時だった。
キィィ……
「……?」
扉の先から、黒っぽい豆のような物体が顔を出す。
そいつは小さな穴を二つ持っており、なにやらヒクヒクと動いて、息をしているようだった。
くしゅん、と音を立てて、一度扉の向こうへ隠れてしまう。
可愛い、ちょっとにやけてしまいそうになる。
この兄弟戦争の趨勢のカギを握るのは。
俺でもなく、ましてや運の神様でもない。
“大変お待たせいたしました!Teus様っ。”
やはり、この狼だったのだ。