157. 拒食症
157. Anorexia
ボタタッ……ボタ、ボタ…
その柔らかな感触から、これは致命的な一撃であると確信する。
カラランッ……カラン……
遥か遠方で、俺が口から手放した大剣が転がって滑る音が響いた。
“……。”
捉えたのだ。
身体が、ぶるぶるっと震え、
死に際の獲物がよく見せるような、形容しがたい痙攣が直に伝わって来る。
そして…
「ウブッ…ぐぅ…?」
「げぇぇぇっ……う゛おぉっ…!?」
吐いたのだ。
「……?」
Garmが、ではない。
俺が、だ。
「おろぉぉぉっ……うえ゛え゛っ!?…うげぇぇっ…?」
何が起きているかを、自覚できていない。
ただ、口の中に込み上げてくる吐瀉物が塞いで、それが足元に濡れ広がっていくのを凝視している自分がいるだけだった。
唯一つ、直感できたことがあるとすれば。
俺はGarmに、Fenrirという狼の中から誘き出されたことだ。
滑稽なまでに容易く、罠に嵌められてしまったらしい。
頭が、痛い……
“フッフッフッ……”
ようやく我に返った時には、彼がじっくりと俺の自滅を眺めて堪能しているその視線を冷静に感じられていた。
“ヨウヤク気ガ付イタカ?”
“我ガ狼ヨ。”
「フェンリルウウウゥゥゥゥゥゥッッッーーーー!!」
ドチャァッ…
「キャウゥぅ…!?」
脳天を直撃する、Garmの右前脚。
爪でがっちりと掴まれ、逃がれられないよう抑え込まれ、
全体重をかけられる。
「逃げろっ…フェンリr……」
“オ前ハ、モウ、コノ戦イニツイテ来レナイノサ。”
ピキッ……ビシィッッ……
「ぎゃあああぁっっっーーーーー!?」
そう。俺は、克服できていなかったのだ。
Siriusの身体に噛みついたトラウマを。
口の中へと流れ込む、貴方の風味を。
Garmは初めから、これを狙っていたのだ。
狼らしく、接近戦にさえ持ち込めば。
こいつは端から、その土俵にさえ四肢で立つことが出来ない。
そしてFenrirは、初めからそのことに気が付いていた。
だから俺の牙をできるだけ自分の肉から遠ざけ、
人間らしく武器を取って戦う手段をとった。
その意図を嗅ぎ取ろうとすらしなかった俺は。
身勝手な行動に走り、
自らの自滅を招いてしまったのだ。
ごめんなさい、Fenrir。
ずっと、俺のことを、心配して下さっていたのですね。
もう私には、この大狼を傷つける牙が無いことを。
それなのに、自分ときたら、貴方の意表さえも突いてしまおうと、こんな愚行に走ってしまうだなんて。
とんだ足手纏いじゃないか。
だ、駄目だ……
脊髄反射的に、吐き出さんとする。
脳が、嗾けて止まない。
「うぶるぅぅっ…ぶふっ……!?」
全身の痙攣に抗う間もなく地面に抑えつけられ、口を完全に閉じられた。
吐き出したい血反吐が、進路を絶たれ、喉奥へと逆流する。
このままでは、顎が砕けてしまう前に…
窒息して、しまう、ぞ……
“オイオイ……一度ナラズ、二度マデモ、俺ニ頭ヲ踏ミツブサレタイッテノカ…?”
「何をしておるっ…早く離脱せよ…!!」
“良イダロウ。肉ヲ切ラセテ、オ前ノ骨ヲ潰シテヤルゾオッッ!!”
「うあ゛ぁっ…!……へぎゃぁぁっ…!?」
駄目です、我がおおかみぃぃ……
身体が、言うこと、聞いてくれま、せん……
眼球が、ぐるぐる、回ってぇ…
目が、回るぅぅ…
「ちぃっ…!!」
彼が心の内で舌打ちをしたのが聞こえた。
「このまま、ではっ……」
すみません。
貴方の体力までも、一緒に消耗してしまうだなんて。
俺は一挙手一投足に、多大なる責任が求められていることを否応なしに自覚した。
これは、失態とかいうレベルではない。
俺の未熟さが、もう一匹のFenrirを殺しかねない領域にいるのだ。
現に、Fenrirが歯を食いしばって、一緒に叫び声を上げるのを、堪えている。
“……?”
その時だった。
俺は頭の上に重くのしかかっていた前脚が離れるのを感じた。
理由は分からない。
だがGarmが舌打ちをして、
自分を弄んで悦に浸るのを一時中断したのだ。
そうせざるを、得なかった。
“クソッ…!”
なんだ?
どんな救世主が、この窮地に手を差し伸べたと…
「何をしておるっ!?早く立てっ!!」
「はっ…はいぃっ!?」
俺は本能に命令されるがままに、僅かに宙に浮いたGarmの前脚を押し上げ、身を起こした。
「そ、そういうことかっ……!!」
まさか、その手が自分自身のものであっただなんて。
「グルルゥッ…!!」
俺は口を開き、半回転の間を待ってから、再びそいつを口に迎えて掴み取る。
“シマッタ…!!”
手中には、再び大剣の柄が咥えられていたのだ。
頭上には、背後からの斬撃を恐れて、完全に身体を浮かせてしまった大狼の腹。
「どうして…投げ棄てたはずじゃっ……?」
俺は自分自身で混乱を口にしてしまう。
ブーメランのようにして、戻ってきたってことか…?
いや、誰かが投げ返してくれでもしない限り、それはあり得ない。
確かに、こいつが地表を滑って転がる音を聞いていたのだから。
じゃあ、そいつは、誰だ……?
「……!?」
眼下に、何かが光っている。
ルーン文字、だ。
一瞬だけの識字で、それが何を意図して記されたものであるかの、凡その検討をつけることが出来た。
これ…‘転送’ を目的に、刻まれてる…?
「もしかして、貴方が…!?」
いったい、いつの間に…?
でも兎に角、これで九死に一生を得た…!
「ありがとうございますっ…!!」
こんな機転の利かせ方ができるのは、貴方しかいない。
流石だ。いとも簡単に、私の想像を越えて来る。
Fenrirは、自分が洞穴に刻み込んだ転送の儀を、直ちに理解し、実戦での応用へと昇華して見せたのだ。
俺が口から吐き捨てるように投げ出した大剣は、まっすぐに、予め用意されていた、彼が仕掛けていた円陣の上へと滑って入った。
そしてその勢いのまま、術式は最高のタイミングで発動する。
この大剣は、目の前で光を失いつつある円弧の内側へ、即ち平伏した俺の口元へ、飛び込んできたのだ。
「戯けがっ…!我ではないわっ!!」
「えっ…じゃあ、誰が…」
「そんなことを考えておる暇があったらっ…!!」
「す、すみませんっ……!?」
俺、ではない…?
よくよく考えれば、当たり前だ。
俺に、そんな罠を仕掛ける暇は無かった。
自分を救うことが出来ているなら、俺はとっくにそうしていたのだから。
と、いうことは、だ。
……嘘だろ…
……そんな、ことって…?
衛星でも、空に浮かべているのか……?お前。
そんな訳ないよな。
お前は一体、今、何処にいるんだ?
どうして俺の居場所が、正確に読み取れる?
この場で、同じ景色を、リアルタイム共有しているのでもない限り……。
「……!!」
なんてことだ。
とんだ、大馬鹿者じゃないか。
ちゃんと笑顔で、教わった通りに、お別れの言葉を述べたのに。
お前には俺が言った言葉が、少しも耳に入って来ていなかったのだ。
だが、朗報だ。
少なくとも、俺が追放したお前は、
無事に、ヴァナヘイムの皆の元へ、辿り着いたんだな。
「良かった…」
「本当に…良かった……」
また別の自我が植え付けられ、精神に巣食った感覚は、存外悪くない。
俺がこの狼に見守って貰えている温もりを想像させ、より強固なものにするからだろうか。
再び加護を帯びた毛皮は、青白く揺らいだのだ。
「ありがとう。」
構図は、完全に逆転する。
「いけええぇぇぇぇっーーーー!!」
これが、Siriusの流派か。
俺は殆ど意識させられることなく、大きく首元の毛皮を晒して仰け反り、遠吠えの姿勢を取った。
そして、前脚をふわりと浮かせて上体を起こすと。
「グルルルルゥゥゥッ!!」
そのまま後ろ脚を蹴り上げ、背後へ半回転の捻りを加えて飛び退る。
“……!!”
淀みない所作であるな。
剣技をそっくり模倣した一撃が、炸裂する。
その切っ先は舞った。
“ギャウゥゥッ…!?”
Garmの腹の裏に隠れた狼の腫物を、
真っ二つに、切り裂いてしまったのだ。