153. 最終形態
153. Final Phase
改めて対峙してみると、全くもって何者だという感想が浮かばない。
この大狼は初めて俺の前に姿を現し、一撃でひれ伏させたあの時から、少しも外観を変えていないのに。
その眼差し、構え方、毛並みの逆立て様までもが、まさに自分にそっくりであったのだ。
そして、俺自身の鏡写しだと思える要素の一切は。
今、一緒に震える四肢を踏ん張ってくれている、この狼のもの。
「シリウs……」
「し、失礼しました…我が狼……」
その名で、つい呼んでしまいそうになる。
沁みついているんだ。
私は貴方の名前を、繰り返し呼びたがったから。
「何を恥じらっておる。今まで通りに、語り掛ければ良いであろうが。」
「で、ですが……」
私は貴方が授かったお名前を、知らなかった。
これはとんでもなく、失礼極まりないことだ。
というよりもっと酷くて、それを聞き取ることなく、別れを告げてしまった。
それで、都合よく思い込んでしまっていたのです。
きっとあの狼は星となって、私を見守ってくれていると。
しかし、まさか……
まさか貴方が…!!
「ああ、そういうことだな。自分の名前を自分で呼んでいるような気がする、と。」
「え、ええ…仰る通りかと。」
「分からなくもない、我も主のことをそのように呼ぶと、声が知らずのうちに震えた。」
そうか、そうですよね。
私は貴方に、確かにあまり名前を呼びかけて貰えなかったと記憶しております。
ですが、それは私が貴方に到底及ばず、未だ認めて貰える水準に達していないからかと。
「そのように考えておったのか?まったく、卑屈な狼よの……」
「なあ、Fenrir。」
「は、はい……」
「Fenrir、Fenrirよ。」
「は、はい……聞こえております…」
「Fenrir。ふむ、良い名であるな。のう、Fenrir?」
「お、お願いですっ、やめてくださいっ…!!耳が、耳が擽ったい…///」
「ふっふっふ……主が観念するまで、イケボ、という奴で囁いてやろうぞ…」
「わ、わかった!分かりましたからっ!!」
くそ、同じ声なのに…
「Fenr……」
「フェンリルっっ!!」
「後で話がありますのでっ!!今は黙っていてくださいっ!!」
「……なんだ。」
「もう転びおったのか。面白くない…」
もっと我を楽しませよ。
主がそうやって苦しんでいる様を、もっと見たいぞ。
追い詰められながらも、必死に抵抗して見せる様を。
じっくりと裏側から舐めまわしたいのだ。
「しかし良かろう。…今は、これっきりにしてやる。」
「Fenrir、我が、狼よ。」
「なっ…にをっ…?」
ぞわりと耳から生えたふさふさの毛の塊を舌が撫でる感触に襲われ、思わず首が縮んだ。
「ほ、本当に貴方、味方なんですか…?」
ああ、こんな幸せなやりとりを、一生続けていたい。
もう一匹の自分。
気後れせずに語り合える、心の中の友達。
それでいて、決して都合よくは無い。
それは、まるで子供のころに夢見ていた、理想の相棒なのだ。
一つだけ、そぐわない点があるとしたら。
俺はそいつのことを、人間の姿として思い浮かべて、笑いかけていたことだ。
その友達は、別個の主体ある人格でありながら、自分自身の域を出ていないからだ。
瞼を閉じると、尻尾を揺らして此方を見ている。
開いても目の前にいてくれたら、どれだけ嬉しかったか。
お前は、どうなのだ。
その心の中で、踊っているか?
「Garm……。」
お前もまた、この世界に蘇ったのだな。
惜しまず命を吹き込まれる様を、こうして見せつけられた。
あの少女は、本当にお前のことが大好きであったのだなと思うと。
それが確かめられただけで、何と言うか、安堵してしまうよ。
お前はやはり、必要とされていたのだな、と。
それは飽きぬ遊び相手であるからでも、話し相手としての機知に富み過ぎているからでもない。
彼女が、狼を愛していたから?
そんな深さの理由が、それ以上の追求を為される必要も無く、許されている。
お前は、俺が二人の愛を求める理由として足りなかった、何かを備えているんだな。
彼が、狼の言葉でぶつぶつと呟いている。
“誰ダッ、オ前ハッ!?勝手ニ俺ノ中ニ入ッテ来ルンジャナイッ!!”
“邪魔ダト…?主ノ方コソ、引ッ込ンデオレ!モウ主ニハ任セテオケヌ。”
“オ前ノ方コソ、引ッ込ンデイロ!…俺ノ邪魔ヲスルナァァッ!!”
そうか、そんな風に、他人には映るのか。
奇妙に思うんだろうな。
‘多重狼格’ 、だと。
皆、根源は同じであるのに。
“コイツハ、目障リダ!!俺ガ必ズ、コノ牙デ殺スッ!!”
“無論、ソノツモリデアルトモ。我ハ在奴ヲ、今度コソ眷属ノ内ノ一匹ニ迎エ入レナクテハナラヌ。”
あんなに寂しい思いを、もう二度とさせるものか。
主が勇気を振り絞って、我に首元を晒してくれたと言うのに、
ああ……我は躊躇い、逃げたのだ。
主よ。まだ我を、手段の一つとして選んでいてくれているか。
その毛皮に牙を突き立てること。今度こそ我は恐れぬぞ。
“オ、オイ待テ…”
まさか。こいつを、オ嬢の住まう世界で暮らさせるつもりか?
そんなこと、絶対に許すものか!!
こいつは必ず、オ嬢にとっての一番になるぞ?
そうなったら、どうなる?
俺もお前も、オ嬢に構って貰えなくて…
“地獄デマタ、一匹ボッチニナルンダアッ…!!”
“ソンナッ…!オ、落チ着ケ。ソンナコトガ起コル筈ガ無カロウ…”
オ嬢は決して、我を見捨ててはおらぬ。
お前がこうして、オ嬢の召集によって二度も生を与えられているのが、何よりの証左であるのではないか?
“ソ、ソウカ…?ソウダ、ヨナ……”
だがとにかく、こいつは危険だ。
必ず生かされた世界に破滅を齎すであろう。
俺の本能が、そう囁いている!!
“殺サナクテハ……”
“殺サナクテハァァァッーーーーー!!”
こいつは今すぐ、ヘルヘイムへ決して辿り受けない世界へ、追放すべきだ。
もう一度、楽園へ送り届けるのだ。
よもや、あんたみたいにヘマをこいて、落っこちて来ることは無いだろうしな。
それに、こいつを殺さなくては、お前のこの世での願いとやらも、叶えて貰えないんだろ?
それとも何か?お前、また無抵抗に死んで、ヘルヘイムで慰めて貰おうってのか?
オ嬢のご厚意さえ無駄にして。
それこそ、お前をどん底に堕とした我儘なんじゃないか!?
違うかい?鉄の森の御領主様よ?
“オ前ト俺ノ ‘肉ノツナギ’ ニ、同ジコトホザイテミロッ!!”
“……。”
“済マナイ。”
“……ゴメンナサイ…”
“必ズ…勝ッテ見セルカラ……”
“フン。コレ以上ノ口論ハ、不毛ダナ……。”
“シカシ、一ツダケ分カッタコトガアル。”
“……?”
“主ト、手段ハ一致シテオルヨウダ。”
“最後ニ、我ノ過半数ヲ占メヨ。”
“賢狼タル主ナラバ、今ハ手ヲ、イイヤ牙ヲ…”
“我ト組ムデアロウゾ”
“……。”
“チィッ……。”
“スグニ終ワラセテヤル……。”
そう吐き捨てるようにぼやいたのを最後に、Garmは黙した。
俺に威嚇の一切を示すことなく、低く構えて見据える。
「来るぞっ……」
……!!
その警告を本能から受け取る前に。
我は口元に咥えていた大剣の柄を操る牙に、
渾身の力を込めていたのだった。