151. 天国の門
151. Heaven’s Gate
再び、森には静寂が訪れる。
怪物退治は、無事に大成功を収めたのだ。
巨大な化け物が潜む洞穴は、遂に崩落する。
彼らは再び、微睡みの深みへと沈み込んでいった。
入り口は瓦礫によって完全に埋め尽くされている。
此処に一匹の大狼が潜り込めるほどの空洞がぽっかりと空いていたとは、俄かには信じ難い。
増してや自決があったことなど、誰も知る由は無いのだ。
衝撃の足音は、遥か彼方へと遠ざかって行ったようだ。
しかし、変わり果てた憩いの景色は、未だに鼓動を掴んで熱いままだ。
辺りには、濃霧のように張り付く重みを含んだ粉塵が立ち込めている。
晴れるまでには、暫しとは言えないくらいの時間がかかるだろう。
この森に、もう大狼はいない。
死んだのだ。
物語は、幕を閉じた。
そう、Fenrirは。
……。
ドゴゴゴゴォォォォォーーーーーーンッ!!
突如として再び轟き渡る、激しい爆撃音。
幾つもの岩礫が弾け飛び、粉塵がぶわりと広がって周囲を眩ました。
ぱらら……ぱら、ぱらっ…
かと思うと、石屑が静かに滑り落ちる音を最後に、また周囲は堰を切ったように静まり返る。
…いいや。
しかし今度は、そう長くは続かなかったらしい。
ガラガラガラッ……!!
ズドドドドォォォーーーーーーン!!
弾け飛んだ岩の塊は、彼が好き好んで寝床に使った一枚岩のベッドに匹敵する大きさだ。
洞穴の口が咽たのだ。
吐き出したに違いない。
ジャラ…ジャリッ…
瓦礫の山を踏みしめる、確かな四つ足の音。
開かれた大扉から漏れ出した白煙が、
徐々に、薄れていく。
天を覆い尽くしていた霧が、晴れる。
「ふーーっ……」
長く、ゆっくりと吐き出された息。
二つの瞳が、光を宿す。
そして、悠然とした出で立ちで、新たな世界を仰いだ。
降壇する影を纏う靄は消えない。
青白く棚引く威厳は、終ぞ狼のものとなる。
果たして扉は、開かれていたのだ。
「…良く見えぬな。」
狼は、よく練られ、覇気に満ちた声音で、そのように零す。
「もう、良いでは無いか。」
「もう、泣くでない。主よ。」
「…我は、景色が滲んで、前が見えぬぞ。」
そう言って目を伏せると、端から涙が滲み溢れた。
「も、申し訳ありませんっ…!我が狼…」
同じ声が控えめな口調で響いた。
すんすん、と鼻を啜り、耳を寝かせて謝罪の表情を浮かべる。
「でもっ…でも、俺…嬉しくてっ…嬉しくてぇっ…ぅぇぇ…」
「だから、泣くなと言っておるのだ…!」
眼が痛くて敵わぬ。鼻もだ、不快につんとする。
主とそれらを、共有しておることを忘れるな。
「ですから、それが嬉しいんです。私は…!」
「はぁ……」
「こんな悍ましい目に遭っても、か?」
「ええ。我が狼よ。」
「しかしこれでは、まるで……」
「継ぎ接ぎの怪物、では無いか……?」
そんなこと、これっぽっちも思いません。
もし本当に、神よりそのような造形を受け取ったのだとしても。
この頭が二股に分かれて、隣にいる貴方の鼻先にいつでも触れられるように、繋がれていたのだとしても。
私は同じように答えた。
同一であるならば、と。
「やっと、やっと俺は、貴方になれたんだ……!!」
「遂に、夢が叶ったのです!」
「……あいつと、そして貴方が、命を賭して、叶えてくれたんだ。」
狼は、ずっとそんな一匹事を、それはもう嬉しそうに捲くし立てて、
「尻尾を、振り回してはならぬ。はしたないぞ。」
「す、すみません……///」
また一匹で恥じらい、幸せそうに笑っていたのだった。
「全く…酷い有様だ。」
彼は背後で倒壊した住処を眺めると、在りし日の思い出を薄めたくなったのか、憂いを帯びた目を細めて首を傾げる。
「これが無ければ、脱出も危うかったかもわからぬのう。」
「一体これ、何なのです?我が狼…」
彼は不思議そうに尾を揺らし、自らの口に咥えている武器をしげしげと眺める。
大剣の柄だった。
左手には、ルーン文字がびっちりと刻み込まれた刀身が、切っ先の見えなくなるくらいまで伸びている。
これは、戦の神様が降らせた雨粒の残骸ではない。
彼の鉄槌は、初めから血で錆びていて、判読がつかぬほど擦り切れていた。
ということは、別の誰かが、狼に向けて贈ったものであるのだろう。
「ひょっとして、貴方ってシf…」「それ以上言うな、主よ。」
「申し訳ありません。我が狼。」
そんな、同じ行に、割り込んでこないでください。
わかっています。貴方は大狼で、灰色であっても、決して一匹なんかじゃないから。
「我が、狼…」
いいや。違う、か。
「Sirius。」
「…それも違う。」
「そうか、そうですね。」
その名を授かった狼は。
「「Fenrir。」」
まだ、この世界に
慈悲を見たのだ。
「しかしそれは、在奴も同じこと……」
白煙の彼方からは、もう一匹の青い影。
そう、一匹だけじゃない。
“フェンリルウウウゥゥゥゥゥゥーーーーーーーッッッ!!”
“主ダケハ……主ダケハァッ、絶対ニ、許サナイ……!!”
“我ハ、諦メヌゾオオオオッッッーーーー!!”
逃げ遅れた狼の残骸をかき集め。
腹の毛皮の下には、家族の頭を乳の如くぶら下げ。
“グルルルルゥゥゥゥッ……ウオオオオォォォーーーーッッッ!!”
縫い痕を身体中に走らせ、そいつは鬼の形相で唸り、立ち上がった。
先までとは、比べ物にならぬ量だ。
塞がらぬ傷口からは、幾本もの百足が顔を覗かせ、溢れている。
寄生された狂犬のように涎を垂らし。
彼もまた、同時に手にしたんだ。
“サア!!コッチヘ来イィィィッ…!!”
“主ハ、必ズ我ガ藁ノ上デ看取ルカラァァッ!”
“オ嬢ガ主ヲ、待ッテオルノダ……!”
一緒に、いて欲しい。
愛を注がれた狼は、一匹だけじゃないから。
この戦いは、まだ終わっていないのだ。