150. 女神の微笑み
150. Frey’s Reversal
“おっかしいなあ、さっきは簡単に開いたはずなんだけれど……”
再び図書館へとたどり着いた僕は、猫のように大扉へ凭れ込み、爪をカリカリと擦らせていた。
全体重をかけても、びくともしないのだ。
大抵の人間が住んでいるお家は、開けるのにちょっとしたコツがいる。
まず入り口を見分けるところからだ。僕に言わせれば、ここが出来ない狼は結構多いんだ。
部屋の中が見えるのだから、そこしかないだろうと言って。
皆、窓から入りたがってしまう。
それから鼻先と舌をぺたんと押し付けたまま、きょとんと眼を瞬かせるのだ。
部屋の中では、彼女が両手で口元を抑え、身体を揺らさず笑っている。
Freyaさんのお家の扉はいつも不思議だった。
鼻先でちょんと戸板を突くだけで、風が勝手に開けてくれ、僕のことを招き入れてくれたから。
入り口は閉まっているようで、ちゃんと自分達の出入りの為に開け放たれていたのだ。
だからそこに立っていれば彼女に逢えると気が付いた狼から、甘えて、撫でて貰えるようになる。
まだ、誰にも言っていない秘密だ。
“ウッフ!ウッフ!誰かいませんか…?”
それと同じような持て成しを、Teus様をお迎えに上がった時にも感じていたのだけれど。
両前足を交互に踏みながら、そわそわと尻尾を揺らす。
“お願い!急いでいるんだ…!”
誰かが、内側から閉めているのに違いない。
これだけ強く吠えてみても、屋内からは物音ひとつしないけれど。
確かに、息を潜めた気配を感じるんだ。
“はやくっ…はやくしないと…!”
僕は焦っていた。
聳え立つ巨塔の中に、僕が探し求めているものは置き去りにされている。
予感は、もう殆ど確信に変わっていた。
それを口に咥えて、いち早くお家に帰らなくちゃ。
お願い、意地悪しないで、そのお口を開いてください。
でないと、でないと……
“Teus様がっ…”
もう、手遅れなんじゃないかって。
“てぃう様がぁっ…”
僕は、もう会えないんじゃないかって。
“ぁぁっ……うぁぁっ……”
大好きなあの人に。
“あけてぇっ…!!あけてよぉっ……!”
“お願いですっ…開いてぇっ……てばぁっ……!!”
“うわああぁぁぁぁぁ……”
何度も額を無言の壁に打ち付け、
僕は頭がぐしゃぐしゃになるぐらい、叫んでいた。
“Teusさまぁぁぁぁぁ……”
大好きな貴方の名前を。
―――――――――――――
一瞬の閃光と共に、視界は画面を連続で殴られたように割れて歪む。
音はしなかった。耳が爆撃で潰れたのだ。そうでなければ、初弾で捥げてしまったのか。
そこからは、ヨルムンガンドが齎した地響きを、この森に代わって受け止めている実感を味わった。
激しく身体が揺さぶられ、罅が骨に入り、それから毛皮が花の絨毯のようにして破ける。
河川が寸断される代わりに、体中の筋肉が切れ上がり、遂に身体は引き裂かれていった。
叫び声なんて、出なかった。
この森が悲鳴を上げないのと同じだ。
散り散りになった肉片の上から、洞穴を支えていた岩肌が崩れ落ちる。
瓦礫の一つ一つが、俺の残骸さえ残らぬほどに踏み潰して行った。
僅かに、数秒の出来事であったに違いない。
しかし俺は、
立て続けに起こる爆風に少しも動じることをせず。
貴方の身体が同じようにして粉々になっていくのを目の当たりにして。
永遠に思える苦しみを、この一瞬で受け止めさせられたのだ。
どうして。
そうとさえ尋ねる時間さえなかった。
貴方の勝利とか、狼の勝利だとか。
地獄界の少女の勝利までも。
塵に消し去って。
貴方は死んだのだ。
俺と。
相討って。
名誉ある死を、遂げた。
―――――――――――――
時を同じくして、彼女の部屋の窓辺には、曇天から漏れる光の列柱が差し込みはじめる。
その一つは、女神の膝上に横たわった男の死に顔を、柔らかく照らしていた。
纏っていたワンピースの裾は血を吸い、彼女がこの部屋で起きた惨劇の一切を代行したことを物語っている。
にも拘らず、誰一人、もう涙を流さなかった。
そう、これで良い。
神様は、眼を閉じたまま、幸せそうに微笑む。
「もう、大丈夫だよ……」
「さあ、行っておいで。」
「Fenrir…」
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間に合わなかった。
僕は、長老様の言いつけを、守れなかったんだ。
あの人を、死なせてしまった。
それだけを伝えようと、遠吠えの姿勢を取り、胸を膨らませようとしたそのとき。
“……?”
僕は、確かに見たんだ。
僅かに扉が開き。
目も眩むようなまばゆい光の中から。
“え……?”
誰かがゆっくりと、しかし確かな足取りで、此方に向ってくるのを。
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「遅い、んだよ……」
誰かが、俺の四肢と、それから尻尾を触る。
身体の何処にも、そんな憎まれ口を叩く力は残っていないのに。
どうしてだろう。
俺は、笑ったのだ。
「ありがとう。」
「Teus。」
――――――――――――
そして、奇跡は起こる。
「「開け。」」
彼女は、僕らに笑ってくれたのだ。