149. 複製呪文
149. Twincast
「本当に、向こう見ずな人……」
冷たく、消えゆく脈動。
床一面に飛び散った鮮血の上に座り込むと、
夫の身体を自分の膝枕に乗せ、そんなことを彼女は呟く。
「貴方には、できません。」
「誰かを、救うことなんて…」
「だって、もう…」
「テュールさんは…」
自分のそれではないと、すぐに分かるほど。
頬に零れ落ちた涙には熱いぐらいの温もりがあったのだろう。
彼はゆっくりと薄目を開くと、弱弱しく微笑んだ。
「ごめんね。」
「また、君のこと泣かせてしまった。」
「……。」
無理強いしているんだって、分っている。
こういう風に頼み込むしかないなんて。
俺はなんて、打算的なんだろうね。
「自力で…なんとか、したかった、のに…」
この呪文の犠牲となるのは俺だ。君じゃない。
君は、これ以上、少しも苦しんではならない。
そうは言っても、これは我が儘だ。
少しも正当化されず、また美化されてはならないと思っている。
こんな覚悟が通るなら。
皆、願いは叶っているよなあ。
どんな世界になるのだろうね。
地上は、生きていて欲しいと願われた、幸せな人たちで溢れかえるのかな。
地獄の住民も、そんなに悪い業を遂げた者ばかりではなくなるのかも。
ただ、君は瞬く間に、悲しみに壊されてしまうだろう。
俺に対してでさえ、涙を流しているようじゃ。
とても、とても抱えきれない。
それでも、こんなお願いをするのはさ。
初めて俺にできた友達の願いを、俺が叶えてあげたいからなんだ。
「本当に、嬉しそうだった……。」
あの狼が、自分のことを好いてくれているのなんて、表面的でしかなかったのだといじけてしまうほど。
それでいて、嫉妬の気持ちすら浮かんで来なかったぐらい。
彼らの繋がりは、こんな神々の諍いが為に、引き裂かれて良いものじゃないんだ。
Freya。
だから、甦らせるのは、一匹ではダメなんだ。
わかってる…!わかっているよ。君が言いたいこと。
たった一匹でさえ、
その奇跡は、世界の君に対する表情を変えてしまうだろう。
それを、もう一度。
二匹も、救いたいって言っているのだから。
「犠牲にできる身体が、足りないよ…」
何の犠牲も伴わず、というのは君でさえも不可能で。
その自覚さえ伴わず、無垢なるままに為し得てしまうのは、あの少女のみと言うのだね?
でも、でも……
どうにかならないかなあ…?
最期まで、気が付かなかった。
こんなに沢山、守りたい存在が身の回りで笑っていただなんて。
ねえ、Freya……
なんで、言ってくれなかったの?
俺は、君が自分のことを犠牲にして誰かのことを救おうとするのだって。
代わりになってあげたいぐらい。
幾らでも、差し出せたよ。
あの少女が欲しがった家族にだって。
君が望むなら、喜んで。
養子とさえ思わず、二人の子供として愛していくよ。
それを、これから示すつもりだ。
今から俺は、彼女の元へと向かうんだ。
或いは、もうすぐヴァン川を越えて、迎えに来るのだろう。
ちゃんとHelのこと、幸せにするから。
今度こそ、リフィアにただいまと言うから。
どうかそれが、君のこれからを生きる力になって欲しい。
どうか。
Skaと群れのこと、頼んだよ。
どうか……
ヴァン神族の皆様に、よろしくと。
それから、それから、
どう、か……。
フェッ……ンッ…リル…の…こと…
……。
――――――――――――――
部屋に流れ込んだ風は、先とは違って、冬に返り咲いたように冷たかった。
また、来てくれたのですね。そう思うことにしている。
窓を眺めると、貴方が姿を隠そうと森の中へと走り去って行く様を、拝める気がしたから。
「お人好し、ですね……。」
「貴方、あの狼に似ています。」
…ありがとう。
君にそう言われては、何も返す言葉が無いよ。
ほんとに、ありがとう…
清々しい気分だ。
こうして迎えた最期は、とても穏やかだよ。
そうだなあ。
悲しむべきことが一つあるのだとすれば。
訪れる藁の上の死とは、君との永遠のお別れを意味するものだから。
灰の上に膝を付き、ずっと楽園を夢見て過ごすのかも知れない。
君の笑顔を、忘れられなくて。
けれど、そんな不安も払拭してしまえる程、
俺はこんな風に君に看取って貰えて、幸せなんだ。
Fenrirに、ありがとうと伝えて。
彼のお陰で、死ぬ前に、もう一度だけ君に逢うことが出来た。
そして、その恩をこんな形で返すことになってしまったことを。
存外に悔いていないことも。
「…ありがとう。」
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「テュールさん。」
「この呪文。一つだけ、誤って綴られているところがあるみたいですよ。」
「可笑しい。彼も、同じことを考えていたみたい。」