148. 独白
148. Monologue
ずっとずっと、乾いた砂の上を歩いていた。
何処へ向かって進めば良いのか、皆目見当がつかなかったのに。
そこには一本の道が敷かれているように思えていた。
だから足取りは不確かながらも。
延々と、とぼとぼ頭を垂れて歩くことを続けていたのだ。
空は真っ暗闇なのに、周囲は見渡せるぐらいに明るい。
だから躓かずに、脚を引き摺って歩けたのだと思ったのだけれど。
それでいて、砂の模様を読み取ることは出来なかった。
振り返ってみても、自分の足跡が見えない。
だから何処からやって来たのか、分らなかったのだ。
何もない世界だった。
悪夢に魘されるのが怖くて、
眠る前の時間は、いつも何か、他の事を考えるようにしていた。
退屈すると、睡魔が自分の幸せな夢を奪いに来るから。
そうならないよう、頭の中に、幾つかの議題を、飼い慣らしておくのだ。
今日、上手く行った狩りの一部始終を、克明に思い返して、己惚れと反省を繰り返すだとか。
アースガルズにいた頃、子供部屋に並んでいた絵本の中身を心の中で読み上げるとか。
単調だが、味わい深い。そんな反復で良い。
そいつらを、夢に放逐して、自分を守る。
だがそれさえも、夢貪りに喰らい尽くされてしまうと。
裸になった俺は、いつも同じことを考えて、残りの時間を潰す。
この砂丘を歩くのを諦めてしまうまで、慣れた思考に、身を委ねても良いだろうか。
いつもいつも、そのことばかり。
俺はどうして、死のうと思ったのだろうか。
子供ながらにではあったが。
漠然と死んではならないとは考えていたのだ。
別にこの場で死んでしまいたいと思うことが、悪いことだとは少しも考えなかった。
ただ、自らの命を此処で終わらせるのであれば。
きちんとそうしなくてはならない理由を提示したかった。
答えは初めからあって、そこへ至るまでの筋道を、
丁寧に論証して納得させねばならないとだけは、殊勝にも考えていた。
自分のことを愛してくれる、それを当然のことだと思って、
そこに理由なんて無いと、前提、或いは原理的であると思い込んでしまったから。
俺は二人に棄てられたことを、ずっとずっと、引き摺り苦しむ羽目になった。
未だに理由が必要な段階であるのだ。
俺は自分の命を此処で終わらせなくてはと、漠然と絶望してしまっていた。
それでは駄目なのだ。そこには俺の価値観に根差した理由がちゃんとある。
それを見落として、ふらっと死んだり、或いは飄々と生き永らえるようでは。
俺はきっと後悔する。
それで、何度も何度も、何故死を選ぶに至ったか。
意識を失うまで、積み上げ続け、目が醒めれば振出しに戻るのを続けていた。
正直なところ、思い出してみると余りに幼稚な論述なので、拍子抜けしてしまう。
だが、変わらず根底にある、そうだよなと共感できる死因というのはあって。
それを思い出して、今、一匹で微笑んでいる。
聞いてくれるか?
俺が ’生きていよう’と思うことから始めた、自殺へ至る道のりを。
――――――
俺が森の中で取り留めも無く考え続けていたことの一つの中で、
形を成して、大きな影となったものがある。
散々と、倦ねてきたのだった。
何故、死を選ぶに至ったか、である。
死にたい、と漠然と考え始めてから。
直視するのが嫌になった俺は、生きるとは何かを問うていた。
どちらかで迷っていたのだ。
何のために生きているのか。或いは生きること自体に意味があるのかと。
俺でさえ思い悩むのだから、誰にでもあるのだろう。
時に必然、己が生かされていること自体に疑問を持つ。
自分の存在が危うくなって、生きていることに、今更のように目を向けるのだ。
更にさらにと掘り続けて。生きることの目的を探すのか。
掘り当てたそれが、自分の根底だと認め。宝探しは此処で終わりとするのか。
俺はずっと、前者が愚かであるように思って来た。
目の前にあるのは、確かに宝だ。そんな明らかなことにも気づかず、もっと大きな何かがあるのでは。
そんな想像に目がくらんで、骨を折らずにはいられない。
そして、宝なんてなくて、だから見つけられないと悟ったときにようやく、それが墓穴であるという落ちが込みあげて来る。
だから、そこにあると言っているじゃないか。
俺は人間ではないからさ。
漠然とした不安の正体は、見つからない目的。そんなものの為に悩み、死のうとするのは人間のすることだと決めて疑わなかったのだ。
俺は人間では無くて、生かされることに一生懸命な動物だから、そんなことに疑問を持ちえない。
寧ろ漠然と生きて、生きることに疑問すら持たない人間は、軽蔑に値する一方で、良い意味で動物に近づいたと言えるのだとさえ思って善がっていた。
兎に角、そんなことをしなくたって生きていけるだろうに、敢えてそんなことをして苦労する輩を、初めは笑っていたのだ。
だからこそ、俺は。
俺は生きることに満足せねばならなかった。
狼であろう以上。
人間のことを、もう卑屈に嗤っていたかった。
しかしながら、生きること自体に意味があるとするのは、それはそれで酷な話であったのだ。
日常を生きる分には、まだ良かった。
しかし、どれだけ苦しい世界でも、生きることを喜ばなければならないと迫られたとき、この思想は豹変して牙を剥く。
どんなに苦しくても、生きることが幸せなのだと唱え続ける。
喩え動けなくなるまで縛り上げられても。
大好きな父親と母親に見放されても。
やっと出会えたはずの狼の友達を喰い殺すことになっても。
きっと俺は幸せなはずで。
そう言い聞かせながら生きることが、肯定される。
肯定された生は、幸せという麻薬で、不遇という感情を宥め賺してくれる。
そんな生き方ですら、肯定されても良いと言うのだろうか。
ここぞとばかりに、俺はこんなにも苦しいのだと確かめて見せる。
ほら、どうか間違っていると言っておくれ。
しかし同時に俺は、その肯定され得ない生のイメージを、最も劣悪だと考える生を、
止めておけば良いのに、頭の中で想像する。
想像せずにはいられない、想像もつかないくらい、苦しい生を。
そして比べてしまうのだ。
世界には、きっとそんな生が存在している。
俺なんかより、もっと苦痛に満ちた一生の中で、俺なんかより、もっと大きな幸せを見いだせている奴がいる。
少なくとも、それは人間ではない。
そして、きっと狼である気がしている。
だから俺は、我慢が足りない。幸せを見つけようとする努力が足りない。
さあ、つべこべ言わずに、さっさと歩くのだ。
もう一歩も歩けないと泣きじゃくる俺に、表情一つ変えずに、また同じ論調で、進むようにと檄が飛ぶ。
そうしたら、それなりに歩くことは出来た。
けれども、もう泣く気力すらない。
容赦ない命令も、俺を益々卑屈にさせるだけだった。
ああ、俺はなんて、駄目な狼なのだろう。
生きることが幸せであると信じていながら。
生きていることが幸せだと思えないだなんて。
人間よりも、質が悪いと思った。
こんな奴に、この森を生きる資格なんてない。
耐え難い苦痛と一緒に、本当に死んでしまえば良いのに。
自分でも酷すぎやしないかと思うほどに責め続けて、取り敢えずを愉しんでいたある日のこと。
俺はようやく、ある考えに辿り着いた。
俺は、俺よりも苦境にいながら幸せでいられる人たちよりも、喜びを見出す能力が欠如していたのだ、と。
そうか、そうだったのか。
我ながら傲慢であったな。自分の至らなさに気が付かなかっただなんて。
そうだ。俺は弱かったのだ。
俺が良い訳に引き合いに出してきた人たちよりも。根本的に劣るのだ。
それならば、仕方のない話ではないか。
そうだよな?
それと同時に、俺は大多数の人間が、同じように弱いに違いないことにも気が付いた。
だから皆、その能力の欠如を補うために、別の達しやすい目標、何のために生きるかという議題に切り替えることで、その目標と、生きること自体を喜ぶといいう課題を同時に成し遂げようとしていたのだ。
生きる目的がはっきりとしていて。
それが満たされるのなら、その生自体も、意味のあるものに思えるのは当然ではないか。
なんだ、そういうことだったのか。
流石だ、やるじゃないか。人間というのは。
俺も、凡狼の域を出ないという訳だ。
そうなれば、幾らか話は早い。
光が見えてきた。
俺は、何のために生きれば良いのか、だな。
無論、物なんかではない。
食べた肉はどれも美味しいけれど。
この森に唯一匹では、そんなもの喚起されない。
そして理想を追い求めていたい俺は、決して自分の為に生きるということをしたくなかった。
俺は……馬鹿だなあ。誰かの為に生きて見たかったのだ。
それが喩え、上辺だけのものだったとしても。
本当はそれが、結局自分の為であると、薄々感じていたしても。
孤独な俺は、少なくとも誰かと関わって生きていたい。
それで俺は、溜息を吐きながら、辺りを見渡すのだ。
誰も、いない。
この世界には。
本当に、誰もいないのだ。
誰か……誰か、いないのか?
随分と、探し続けた。
不安で、胸がいっぱいで。
寂しいよおおと、声を上げて泣くことすらできずに、檻の中を彷徨い歩いていたのだ。
そして、到頭誰にも出会えないのだと悟ったとき。
俺は生きる目的すらも見いだせないのだと喚いた。
しょんぼりとして洞穴の奥へと入り込み。
そんな思いの丈を、目の前の亡骸に、打ち明けてみる。
……?
いるじゃないか。
俺にも、たった一匹。
俺は、貴方の為に。
Siriusの為に、生きれば良いのでは無いか?
で、できるだろうか……?
醒め切った頭に少し熱が入ると、それは俄然動き出す。
Siriusとは、もう一緒にいることはできないぞ。
それなのに、彼の為に、俺にできることなんてあるのか…?
例えば、Siriusの躯を大事にして、彼の供養に身を捧げる。
彼が死後の世界を、それが存在するのならば、幸せに生きられるよう、出来る限りのことをするとか。
それから、彼が守ってくれた森を、代わって守り抜くために生きる、というのはどうだ?
俺は、そのように生きれば、良さそうだ。
彼の為に生きることで、愚直ではあったが、ようやく俺は、生きることを幸せだと思えるようになる。
これで、大丈夫か…?
Siriusのことなだけあって、俺は慎重だった。
彼の為、と言ったからには。
貴方のことを考えるだけで、気分は暗い。
第一に、俺なんかに死後の冥福を祈って欲しくなど、無いのではないか。
食べ物を供えて見たり、なんか気安く話しかけて来る俺のことを、実は鬱陶しいと思っているんじゃないか。
第二に、此処は確かに、Siriusの暮らしていた森であるのだけれども。俺は夢で、一切の誇りを捨ててしまったことを知っている。
Siriusが最早この森を自分の縄張りだと思っていない以上。
その行為は成立し得ないのではないか。
第二の答えが出たのは、そんなに昔のことではない。
俺が彼の影を落とし、ヴァン川の対岸に、今も生きていると錯覚させる伝説が。
この森を神様に侵させない防御輪の役目を果たしていると知ったときだ。
ああ、Siriusはとうの昔に、この地を後にしているけれど。
誰もがこの土地を統べる大狼を、王として畏れているのか。
やはり、貴方の森なのです。
そしてそれを保つことは、重要だ。
譲り受けたつもりはこれっぽっちもないけれど、畏敬の念がそうさせているというのなら、
俺は貴方の皮を纏って闊歩することも手段として許されるのでは無いだろうか。
貴方が歩いてきた獣道を、二本足で汚させる訳にはいかないから。
実のところ、俺は彼の、亡き狼の名誉を守れるかもと分かっただけで、開花のような希望を抱けたのだ。
その意味で、全ては第一に集約された。
そして、それが最も難しいことを直感してしまえた。
Siriusが、俺のことをどう思っているのかが、分らない以上。否定しがたいのだ。
考えれば、考えるほど。重たく、沈み込んでいく。
彼は、喜んでくれるのだろうか。
俺は、Siriusの外的な評価を守っているだけで。
俺の慕う貴方自身を守っていることにはならない。
結局、俺は守るという任務を担っている自分に酔っているだけに過ぎないのではないか。
そんな暗雲が、垂れ込める。
覚えている。
こんな奴にSiriusは殺されたのだということを。
忘れるものか。
そうだ。
俺は、彼の為に生きることが出来ない。
その結論に、愕然とした。
Siriusは、自分が、この森で生きるに値しない存在だと悟って、自らの命を絶った。
俺もまた、そうなのかも知れない。
そ、そんな……
で、でも…これで、良いのかもしれない。
俺は、ゆっくりと
歩く方向を変える。
彼の傍に、いられるじゃないか。
そうしたら、彼を支えるだけでも。
彼と一緒にいて、少しでも彼にとって良いことが出来るように。
俺がそうしたら、今度こそ俺は、彼の為に……
貴方に、Siriusに、逢いたい。
話したいことが、山ほどあるのだ。
聞きたいことが、山ほどあるのだ。
Sirius、貴方は私に、なんと言葉を掛けるのですか。
……。
俺は、脚を止めるべきだ。
俺は、俺は彼の言葉を……聞き漏らさない、から。
「生きるのだぞ。」
「え……?」
「Sirius……」
辺りを見渡しても、やっぱり誰もいないけれど。
俺は彼に、生きろと願われてしまった。
これは、Siriusの願いだ。
彼の傍らにいたいという自分の願いと。
俺に生きて欲しいという彼の願い。
どちらを取るかなんて。
初めからはっきりしている。
俺は生き抜いて見せる。
彼の最期の願いを、最後まで叶えて見せる。
貴方は天星になって、きっと俺を見ていてくれている。
俺が立派な狼になって。Siriusの真の名に恥じぬ生き方をすれば。
そうだな、多少は喜んでくれるに違いない。
さおして、俺は生きる意味を持ち、生きることが幸せだと心の底から言える。
生を終えてから、今度はSiriusの傍らで、彼の為に尽くせばよい。
だから、今は生きるのだ。
Siriusが心配してる。
少しは、尻尾を立てないと。
もう迷いは、今度こそない。
それから16年。
俺は再び、貴方の生き方の影と対峙する。
それなりに楽しかった。
俺は、Siriusみたいになりたくて。
彼のように森を闊歩し、森の中で生きた。
ああ、幸せだったと思っている。
今、この森に、俺を除いた肉食並びに草食動物は、もう数えるほどしかいない。
飽食を当たり前のように過ごしてきた俺は今、飢餓という危機に直面している。
悪いのは、まあ自分だ。好きなだけ欲を満たして招いた結果なのだから。
俺は今、もう一度、誰の為に生きるかと考えているのだ。
今度こそ、俺は誰かを守ることが出来そうなのだ。
それは途轍もない規模だった。
俺は、俺以外のすべての人間を、…俺から守ることができそうなんだ。
俺は、危険だ。
空腹の余りに理性を忘れ、生の世級の赴くままに、目にするもの全てを、手当たり次第に口の中に放り込んでいくだろう。
そうなのだ。俺は人を、貴方と同じように、喰ってしまいかねない。
俺は、危険なのだ。
俺は…狼だから。
彼の生きていて欲しいという願いよりも優先すべき、彼の狼としての在り方に従うならな。
俺は人を喰う狼なるぐらいなら、死ぬべきだ。
俺が…狼だからだ。
とぼとぼと、帰り道を歩きながら。何度も繰り返す。
誰かを守ることが、生きる目的として最良という結論を得たのなら、
それでは誰かを守る為に死ぬという目的は、許されるだろうか。
狼の本で読んだ、かっこいい英雄は皆、誰かを守るために死んでいく。
しかし彼らとて、最初から死ぬのではない。
護るべき者を守る途上で死を遂げるのだ。
すぐさま、そうやって守るための手段が、自害でしかないような場面を想像してしまい、俺は異論を差しはさむ余地を与えない。
俺は、俺を殺そうとしている。
さあ、早く、楽になれ。
さあ。
…でも、俺はやっぱり、泣きながら歩いていた。
やっぱり違う。
今の自分とは、違う。
こんな森の中で、一匹狼で生きてきた俺に、
守るべき相手、すなわち自分以外のすべてが、
犠牲となった自分に対して
全く負い目をも感じず。
感謝もせず。
気付くことすらせず。
悲しみに暮れることすらせず。
俺は、死んで…
それでも、誰かのために生きるという目的で死んだことになって。
同時に彼の為にも生きたことにもなって。
俺は、本当に生きたことになるのか?
俺は本当に、死んで、生きることができるのか。
俺は……
そうだ、と。
どうしても。
恐ろしい結論に、そうだと言えなかった。
そうしたら、あいつが。
あの神様が、やって来たんだ。