147. 腸撃ち
147. Gut Shot
「ほ、ほら……」
「俺に、も…」
「でき、た……」
銃口を鳩尾に突き刺して放ったのは、決して怖かったからではない。
かと言って、口の中に先端を咥えて引き金を引くのを躊躇ったのは、彼女に凄惨な光景を焼き付けたくなかったからという訳でも無い。
もうこの部屋で彼女が過ごしたくないと思うのは、至極当然のことだろうけれど。
蟀谷に銃を押し当て、発砲するのは、素人のやることだ。
これぐらい反動の大きい奴だと、しっかり両手で持たないと、普通に銃身が浮いてしまう。
最悪の場合、致命傷を免れる。
とある時代の戦地に赴いた時、実際に目にしたことがある。
腹部に喰らった弾丸が、胃袋を破裂させると、胃液の強い酸が零れだし、獲物の腸の代わりに、自らの内臓をじわじわと溶かしていくのだ。
皆、痛い、痛いと呻き声を上げながら、死んでいった。
それが今、実感となって伸し掛かって来る。
銃声に心臓を握りつぶされた直後に、そいつは激しく蠢きだした。
「ふっ……ふふぅっ…!?」
息が上手く吐き出せなくなり、半ばパニック状態に陥る。
冷や汗が噴き出し、じっとりと肌に纏わりつく。
これは終わったなと、薄ぼんやり絶望できる。
嘘だろ、死ぬまでずっと、このまま付き合わなくちゃならないのか。
心の奥底で、冷笑の声が鳴り響いた。
おいおい。
こんな風に、惨めにのた打ち回りながら死んでいけるなんて。
本望じゃないか。
即座に意識を失うことは許して貰えそうに無い、というのが此処では利点となりそうだ。
こうして、小刀を抱え込むようにして切腹の姿勢を取ったのは、
それまでの長い長い地獄の時間を懺悔と共に過ごしたい、
そんな気持ちの表れであるということにしようか。
そう、まだ時間がある。
俺には、まだやるべきことが残っているんだ。
そう思っただけで、残り一分一秒が、堪らなく惜しい。
苦痛に耐えようなどと、閉じていた眼を開き、
咄嗟に傷口に手をやって、抑えてみたりなどする。
止血のつもりはこれっぽっちも無かったけれど。どんなものかなと肌で感じて見たかった。
「うぅっ……うぅ…」
人間の言葉さえも絞り出せず、いよいよという感じだ。
思ったよりも、血が身体から噴出する感じは無かった。
狼たちの誤った闘いを見せられ過ぎたのだ。爪で血の詰まった袋を切り裂かれたのでも、牙で心臓を食い破られたでも無いのだ。
腹で破裂した内臓からの失血は、酷いものだろうが。
こうして風穴から漏れて来る水っぽい液体の量は、俺の想像に比して劣ったのだ。
そうして手の平で受け止めた血の色は、最後まで乳白色のまま。
一滴残らず、俺は染まってしまったんだ。
まあ、それは別に構わない。
命に優劣は無いのだから。
これから唱える奇跡に支障を来すことにはならない。
ただ、俺の血が、こうして無為に流れさえすれば良い。
床を這って広がる血だまりが、枝状に伸びていく。
予め塗られた蝋で弾かれたように、血が避けて行った跡。それはある模様を形作りながら、広がって行ったのだ。
「よ…し、良い仔だ…」
床一面を、覆い尽くさなくてはならない。
この呪文を完成させるルーン文字の量は、相当なものになるぞ。
ごめんね、Freya。
どうかそのベッドから、降りてこないでおくれ。
君の素足を汚してしまうことになるから。
ずっと黙っているつもりだった。
若気の至り、みたいなものさ。
愚かにも、自分にもできるんじゃないかって、思ったんだ。
あの大狼ほどではないけれど、頑として口を割ろうとしない難解な書物との取っ組み合いに、俺も相当な時間をかけて来た。
才能だけは過信する程度に持ち合わせていたから。
あとは方法、知識、努力によってどうにかなる部類で乗り越えられると。
それだけ、俺は本気だったんだ。
本気で、彼女のこと、蘇らせようとした。
その時に、一言一句覚えたのが、これ。
なんで、泣いてるのさ。
大丈夫、何も起こらないよ。
現にこうして、文字は血に流され、ともすれば消えかけてしまっている。
唱え手に、この文字を光らせる力が無いんだ。
書物に刻み込まれた、読み手を意図しない模様。
形骸化された、ただの文字の羅列。
そうと悟った時に、不思議と絶望は無かった。
安心したよ。
許されたとさえ思った。
ただ…それだけ。
だから俺は、これから何もしない。
昔の失敗談を、こっそりこの部屋の誰かに向って打ち明けているだけ。
君の前でこんな醜態を晒すことになるだなんて、思ってもみなかったよ。
俺は右手にずっと握りしめていた銃を床に置き、濡れ広がった血を掃けようと銃身を滑らせる。
「最後に……こうやって、」
「…を、書く……ん、だ……」
腕より先が、鉛のように思い。
人差し指が、人形のそれのように関節が固まって軋み、動かない。
「生きて……ほ、しい……な、え……を」
どうせ叶わない。
だから俺は、贅沢なお願いをすることにした。
ドチャァァ……
一匹の狼の名前を書き終えた安堵で、
全身から力が抜け、顔面から血だまりに崩れ落ちる。
「ま、だだ……」
まだ、終わっていない。
眠気が押し寄せる。
諦めちゃだめだ。
此処だけは、抗うんだ。
もう一匹…
なま……え、を……
もう一匹……書かなきゃ…
あいつ、が…
心から、
わらって
く、れな……