145. 復活呪文
145.Miraculous Recovery
開け放たれた窓から、突風が吹き込む。
白いカーテンは、冷たい春風を孕んで膨らみ、柔らかに棚引いて。
「Fenrirが、死んだ。」
ゆっくりと、伝令の役目を終えたのだ。
「フェンリルがっ…死んだ……!!」
「フェッ……ンッ…リルがぁっ…あぁっ……あ゛あ゛っ……!!」
「死んでしまったんだぁっ……」
何度口にしても、薄っぺらくて、少しも実感として湧いてこない。
ただ、虚しく涙がぼろぼろと流れて来るだけ。
感情を理解できない人形の気分だ。
それは悲しいですねと、機械的な反応を示しているだけのような気がしてしまって。
俺はそれだけを拠り所に、彼の悲報を信じずにいられるのかも知れない。
だが、そうして、幾ら此処で、狼の帰還を待ち惚けたところで。
俺が逢いたい友達は、永遠に姿を現してはくれない。
それで、悠久の時を、何事も無かったかのように過ごせるだろうか。
そうだ。
彼は、あの森から自ら姿を現すことは、決してしないから。
これは俺が、あの狼と逢うことをしなかった世界線と変わらない。
俺がこの涙さえふき取り、彼女に笑いかけさえすれば。
こんな悪い狼の夢から醒めて、
居心地の良い夢の中に身体を浸していられるだろうか。
「Fenrir……」
お人好し、が最初に浮かんだ時点で、もう忘れるのは無理とわかる。
故人を偲ぶと、明るい話題ばかりが出るものだけれど。
それとはまったく別の次元で、俺は君にそう言われたことを根に持っているよ。
今まで通り、俺が逢いにいくしかないね。
君のその言葉を、曲げさせたくないのさ。
暗くて陰鬱な牢獄から、引っ張り出してやる。
初めて会った時と、何も変わらない気持ちでいるのだ。
俺は脱力し切った首だけを傾けて、きつく口を結び、震えている女神様へと目を向ける。
まるで俺は呆けた患者で、君はそれを手遅れだと分かっている看護の人だと思った。
「君のところに、来ているだろう?」
「……。」
「…Freya?」
「……そのようです。」
「その窓の外に、すぐそこに、いるんだね?」
「Freya、お願いがあるんだ。」
「……。いけません。」
「あはは…まだ、何も言ってないよ…」
自分のお願いなんて、どうせ碌なことじゃないと彼女は知ってる。
そして、現にその通りなのだから、これは笑うしかない。
「大丈夫、君が誰かの犠牲になるのを眺めるのは、もうこりごりだ。」
楽園に送られた人たちを迎え、現世で負った傷をゆっくりと癒すその行為さえ、神様の中でも、君一人しか出来ないことだというのに。
その小さな身体で、君はどうしても救いたいと思ってしまった、特別でもない、普通の人に、情が移ってしまった。
リフィアが、君の元へ向かった経緯は、俺には分からないけれど。
どんな行いが、君の琴線に触れたのかは、想像がつくよ。
よく似ていていた、のではないと後になって分かった。
君の一部分が宿っているのだから、それは当然のことだった。
そう思っていたのだけれど、つい先ほど目にした彼女はね。
やっぱり君にそっくりだった。
奇跡は、神様だけのものでは、無かったのだね。
それと同じだと思う。
Fenrirが、Siriusの精神を内に宿して生き続けることを選ぶ前から。
あいつは、きっとあの大狼と同じ風貌を備えるよう予言されていた。
何が言いたいかというとね。
彼が、願ったように生きることは、その通りになるはずだったんだ。
その運命を、神様が捻じ曲げてどうするのさ。
寧ろ、情が移ってしまったのなら。
君のような過ちも、一つや二つ、犯してしまえるのではないかい?
「だから、俺がやろうと思う。」
「……!?」
「教えてくれる?君がそうやって、身体をぼろぼろにしてやる、その奇跡をさ。」
「そんな……できません…!」
「勿論、俺ができるなんて、己惚れてなんかいないよ。」
「この場で、君に発動の条件が整っているのか、それだけを教えくれれば良い。」
どうせ、半ば腐った身体だ。
地獄界、ヘルヘイムの眷属のものだ。
死人には、誰も救うことが出来ない。
それに喩え生きていたとしても。
俺を流れる血の行く末は、もう決まっている。
霜の血、それはJotunの証であるのだから。
アースガルズの神々からは、破門を言い渡されることだろう。
ヴァン神族の皆には、迷惑をかけてばかりだね。
そしてFreya。
俺は最期まで対立して、そうやって君のことを泣かせてしまうようだ。
「お願いだ…時間が無い。」
震える右手を、彼女に向って伸ばすと。
それは神へ救いを求める人間そのものだと思った。
「その呪文の追加コストに。」
「俺を捧げて欲しい。」
「取り戻すんだ。」
犠牲なき献身こそ、真の奉仕、か。
誰もその類の英雄には、なれそうにないね。