142. 秘本裂き 3
142. Tome Shredder 3
「Ska!ここまで乗せて貰ってありがとうね。助かったよ!」
俺は努めて明るい声を張ってSkaに微笑みかけると、
仲間の狼が構って欲しくて注意を引くときにそうするように、ごろりと仰向けになって両腕を伸ばした。
彼らは自分の顔が逆向きに映ることは、相手にとって面白いに違いないと考えている節がある。
そのような発見に至ったのは、愛おしい番の狼が仔狼たちに乳を飲ませているところに、割って入った雄狼の必死な様を見せられたことがあるからだ。
こんな時だから、そんな幸せな記憶ばかりが色味を失って、瞼の裏に媚びてくるなあ。
彼は物憂げに目を伏せ、両手で作られたスペースに、自分の顎下の毛皮をすっと差し込む。
「うんうん、ありがとう…ありがとう…」
確か目の前で凛々しく耳を立てて、険しい表情を崩さない君のことだよ。
なんか、貴方の為なら仕方ないですねみたいな顔してるけれど。
尻尾は俺のこと運んでいる時からずっと暴れていたの知ってるからね?
「…ごめんね。」
沢山、謝らなくちゃならないなあ。
俺の友達が、尋常じゃないぐらい毛皮を逆立てて、怒っているよ。
有事の時には、君とその群れを捨てる、なんて。
冗談でも言うな。
…その通りだ。
そっくりそのまま、あいつに返してやらなくちゃならない。
「Ska、本当に申し訳ないんだけれど、あと一つだけ、頼まれてくれないかな…?」
彼のふさふさの首元の毛皮に顔を埋め、蚊の鳴くような声で語り掛ける。
“はい、何でしょう…?”
一つと言わず、幾らでも大丈夫ですよ?
ずっと一緒にいられるのなら、僕は喜んで貴方の遣いなります。
「あのね、取りに行ってきて欲しいものがあるんだ。」
忘れ物をしてしまったようなんだ。
さっき、俺のことを迎えに来てくれた建物があるでしょ?
多分、あそこに本が一冊、落ちてると思うんだ。
“本、ですか…?”
うん。もし其処に無かったら、多分道中に落ちてるかな?
とにかく、嗅いだら俺の臭いがしてると思うから、きっと分かるよ。
探して、俺のもとまで持ってきてくれないかな?
“承知しました。Teus様”
彼は人間と遜色ないスピードで俺の言葉を解すると、暫しの別れの前に、自分の口元を敬愛の印として舐める。
“すぐに持ってきますから…此処で待っていてくださいね?
くるりと尻尾を翻して、念を押すように此方を見つめる。
「大丈夫だよ、安心して。当分歩けそうにないから…」
ほら、この通り。
俺はそう言って変な方向に曲がってしまった右脚を指さす。
“きっとですよ…?”
彼は悲しそうに眼をつぶり、扉の隙間を抜けて、姿を消してしまった。
「ごめんね、Ska……」
これで、幾らかは時間を稼げるだろう。
二人きりになった小部屋は、あの狼が自分たちと行動を共にしてくれる前の、ちょっとぎこちない同棲の時期のような寂寥感を漂わせる。
寒かった。
君は何とも思わないようだけれど、俺は暖の手段を毛皮の温もりに頼り過ぎた。
上半身を起こして壁にもたれかかると、同じくベッドから足を垂らして座っている彼女をもう一度見つめる。
「君だったんだ…」
「Helをこの世界に呼んだの。」
その透き通るような肌は、あの少女と反対のそれを腐らせていた。
「どうして…」
そこで、言葉を飲み込む。
その行いが理解できないことを、悟られたく無かったからだろうか。
ただ、責めているようにだけは取られたくなくて。
「…貴方と、同じです。」
「可哀そうで見てられなかった、ということ?」
「…あの娘のこと。」
「……。」
「でも、自分を犠牲にしてまで…」
「…いや、それも俺と同じってことかい?」
「二人して、損な役回りをするものだね……」
どうしてあんな男の残した血筋に、こうも振り回されなくてはならないんだろう。
でも、悪い気は全然、して来なかったよ。
見返りなんて何もないと周囲は言うけれど、俺はあいつが自分のことを友達だと言ってくれただけで、十分だった。
「ごめん、なんか一人で勝手に納得しちゃった。」
それと同じだって言うんなら。
俺は理解から最も遠い共感を、君に向けているのかなと思う。
「死者を蘇らせる力を秘めている、という噂も…」
「君の身体を分け与えられたから、と考えれば、合点が行く。」
というか、そうだ。
単に逆の証明が為された。
Freyaには、やはりその権限が与えられているんだ。
「うん…わかった…」
「気がする。」
寧ろ、君に咎められなかったことに、感謝するべきだったのだ。
俺が大狼の命を救い、そして懐かれてしまったが為にヴァン川の領界を渡る禁忌を侵させた。
そのせいで、ヴァナヘイムはあわや壊滅という所まで、内部からぐちゃぐちゃに搔き乱されてしまったんだ。
それと、何も変わらないじゃないか。
「…確かに何も、変わらない。」
あるとすれば、それが大狼か、霜の人間かの違いでしかない。
「でも、やっぱり君は、自分のことを犠牲にし過ぎだよ。」
「もっと…大切にすべきだと思う。」
君がどんな女神様よりも優しい存在であることは、誰よりも分かっているつもりだ。
リフィアの次は、Helを生き返らせようだなんて。
それも今度は、自覚があるのかは分からないけれど、
彼女が世界を渡る力さえも分け与えてしまったんだ。
余りにも、惜しみが無い。
そのせいで、君はもう、ぼろぼろだよ。
「見ていられないぐらいだ。」
ベッドに座る彼女の背後の窓辺から、光が差す。
きっと俺が此処に来るまでの間、そこからずっと、風に当たりながら、外の狼たちを眺めていたのだろう。
「それで、どうするつもりだったんだい?」
Helは、あの狼と一緒に、ヴァン川を越えて来るだろう。
この世界は、彼女にとって住み心地が良いように、赤く変わる。
それを、黙って見届けるのか?
それとも、行き過ぎた振舞に鉄槌を下して、こんな悪夢を終わらせる力が。
まだ君には残っているの?
だとしたら、とんでもないや。
「君は本当に、自分の命を使い過ぎだ。」
「俺も、同じってことになるかな……」