142. 秘本裂き
142. Tome Shredder
「……。」
目くらましの罠にかかったのだ。
世界は、露出をやり過ぎてしまったように真っ白に染まっていた。
快晴の下の雪景色よりも、遥かに直視難い。
一瞬、耳の中にまで漏れ込む強烈な閃光が辺りに満ちると、
それが雲にさえぎられたように弱まり。
俺は、全てが滞りなく終えられたことを悟った。
気が付くと、俺は巨大な樫づくりの扉の前で横たわっていたんだ。
此処は…天国の、裾元だろうか。
静かだ。
安らかなる楽園っていうのは、誰もいない孤独な世界のことを、聞こえが良いように呼んだものだったのかな。
鎮座する大扉が内側から重たく押しのけるように開かれると、
光の筋が漏れて、俺を分断するようにして降り注いだ。
誰かが、歩いて来る。
きっと俺を、あの扉の向こう側へと連れて行くための使者だ。
そいつは羽も、頭上の冠も持たないように見えたけれど、
天使の姿を目にしたことが無い死者にとっては、それが彼らを別の何者であると考える根拠にはならなかった。
その生き物は、新たなる来訪者の顔をよく見ようと、自分の口先を触れるくらいまで近づけて来た。
すんすん、と何やら可愛らしい息遣いがしてくる。
“……。”
くちゅ、くしゃっ…
そして、湿った肌触りの何かが俺の頬に触れた。
ぺちゃっ…ぺちゃ…
……?
何だ?これ…
近すぎて、分からない。
くしゅんっ…!
遠慮のないくしゃみの音に続いて、鼻先を湿らせる音。
も、もしかして……。
“……。”
“お待ちしておりました!”
“Teus様。”
Ska、なのか……!?
俺が僅かな反応を示したことに喜んだのか、尻尾をゆっさゆっさと揺らす音がして、益々俺の顔の塩分を舐めとる舌先に躊躇が無くなる。
ああ、良かった!
やっぱりそうだ。
このはしゃぎっぷり、間違いない!
“ウッフ…!ウッフ…!!”
わかった、わかったから…!
口の周りを舐めるのは止めて、息が出来なくなっちゃう。
覚醒した世界は、存外に苦しくなかった。
俺は、最期まであの居心地の良い狼の背中に乗せて貰ったままのつもりでいたらしい。
転送の儀は滞りなく完遂されたのにも関わらず、俺を襲ういつもの吐き気は鳴りを潜めたままだったのだ。
如何にも彼らしい、丁寧な論証を積み重ねて得られた主張と言えるだろう。
頑張ったんだなあ、あいつ。
「……。」
「……うぅ…」
「……うっ、うぁ、ぁ…」
“Teus…様…?”
ふざけるな、よ。
一度も、
いちども、泣かなかった。
きちんと笑って、俺のことを、見送りやがったのだ。
あの狼は…
「フェッ…ンッ…リル……」
俺に、最悪の‘ありがとう’を言ったのだ。
「Fenrir……!!」
あいつに向って伸ばした指先に力が入って、ぴくりと動く。
動け、動けよ。
ここは、死後の世界なんかではない。
横たえたままの姿勢で、顎を立てて前を向いた。
起きろ、起きるんだ。
俺は、まだ諦めない。諦めるものか。
泥水のように濁った涙がこそげ落ち、段々と視界がはっきりしてくる。
ああ、これは…
そう、そうだ。神立魔法図書館だ。
大狼が描き切った通りに、俺はその第1層入り口に飛ばされたのだ。
暫くぶりだけれど、彼が足繫く出入りしていた場所であるので、よく覚えている。
懐かしいな、初めのうちは、あいつが人間の建物に一匹でいるのを不安がらないように、一緒に読書をしてみたものだっけ。
結局習慣づかなかった辺り、俺は知的好奇心において狼の足元にも及ばなかったみたいだな。
どうしても、君の尻尾が揺れるのが気になって、そっちを見ちゃうんだよね。
気が散るとかではないのだけれど、あまりにも魅惑的なものだから。
相も変わらず、部屋は欠色のままだけれど、
散々森の中で迷わされて来た身としては、見知った場所で目が醒めたというだけで、胸の奥がぐっと楽になるのを感じる。
俺の顔を直撃していた光の筋は、窓辺から降り注ぐ列柱のうちの一つであったと気が付いた。
読書日和の、静かで平和ぼけした昼下がりと言ったところか。
いや、分からない。この図書館の窓ガラスは、そうした雰囲気を醸し出せるようなフィルターの役を担っていると狼に教えてもらったことがあるのを思い出した。曇り止めのようにして、何かを塗ってあるらしい。
もしかして、舐めたら味が変だった?って聞いたら、何故か機嫌を損ねたのを覚えている。
相変わらず、視界の露出の具合がおかしい気もするし、外は案外曇り空なのかも。
様子が知りたい。
外に、出なくては。
皆は、無事なのか?
「Ska……早速で申し訳ないんだけれど…」
人間の言葉を解する彼が、これほど頼もしく思えた瞬間は無かった。
俺はSkaに向って微笑むと、そっと指先で頬の毛皮を撫でてあげた。
「お願い、できるかな…?」
身体を起こそうとして、直ぐに無理そうだと悟った。
完全に、膝の関節を潰されている。四つん這いにすらなれそうになかった。
Fenrirの奴、力の加減も考えずに、思いっきりやりやがったな。
もう会うことも無いから、というつもりなのだろう。
そうはさせるか。
させるもんかよ。
絶対に、文句を言いに行ってやる。
“もちろんですよ、Teus様。任せておいてください。”
自分の足元の怪我の具合を嗅ぐと、Skaは直ちに俺の意図を読み取り、腹の下に鼻先を突っ込んで潜り込んだ。
“失礼しますね…”
大きな背中に負ぶさると、落とさないように右腕を甘噛みして咥え込む。
「ありがとう……」
足先を引きずりながらではあったが、大人一人の重量をものともせず、のしのしと歩いていく。
本当に、優秀な狼だ。
ゴルトさんが繰り返し自慢話をしたがるのも頷ける。
俺だって、狼に興味を寄せる物好きがいたら、具に語りつくしたいもの。
そんなこと、知っていますと言いたげに耳をぴんと立てる後頭部は、まさにFenrirそのものだ。
“此方に来るよう、遣われたのです。”
“行きましょう。”
“Freyaさんが、貴方のことをお待ちです。”
お久しぶりです、灰皮です。
いつもFenrirのお話に付き合って下さり、ありがとうございます。
今年の投稿は、これで最後になります。
2022年は、身の回りで沢山の狼がこの世から去ってしまい、個人的にはとても辛い年でした。
彼らの為の佇思に、時間を費やしてばかりです。
来年は、もっと狼について知ることを恐れずにいる1年にしたいと思います。
もう少しで本章も終わりに向っていることは、読者の皆様も感じているかと存じます。
あと数話で、長きにわたる大戦に決着がつくと思います。
その後に、いつも通り狼に関する無駄話を挟んで、いよいよ最終章「古き神々への拘束」編へ向かう予定です。
だらだらと、相も変わらず長々続いていくと思います。
来年もよろしければ、どうかなにとぞ。
2022.12.31 灰皮