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139. ブライズ・アッシャー

139. Groom’s Man


「来てくれたんだね…!」


巨大な氷柱のように垂れ下がった鼻先にしがみ付くと、その抱擁が彼にとっては居心地が悪いことも気にせず、

放してなるものかと顔を埋めた。


「ありがと、う……ふぇんりっ…るうっ……」


「うぁぁっ…ああぁっ……」


もう、助けに来てくれたという希望だけを胸に、絶命してしまえそうだった。

雪山で凍える遭難者を保たせていた糸が緩んでしまったかのように。

俺は歯をガチガチと鳴らして泣いた。


「こっ…わかっ……たあぁっ……うわああぁぁぁっ……」


俺は数秒前の勇気を思い返し、今更になって唇がぶるぶると震え、呂律が回らない。

とんでもないことを、しようとしていた。

愚かであるとは、少しだって思わないけど。

出来もしないことを、やり遂げようとしていたとだけなんだと気づかされる。


現にこうして、俺は無傷だ。



誰もが、楽園に向かいたいから戦っている訳じゃない。


今右手に武器を取る理由は、必ず此処に在るに決まっている。

この世界に残っていて欲しいものを、そのまま残そうとしているから。

その為の手段となることさえも、厭わないと思わされるからだ。

それは、とても怖い。

だから、言い知れぬ寂しさを埋めるために思い描く世界は、美しくあらねばならない。

せめてその世界で、女神は頬んでいて欲しいんだ。




地獄に落っこちる為に、銃口を咥えるのは、理に適っていない訳じゃない。


今、引き金に指をかけた理由は、此処に確かにあった。

此処とは、何処だ?

分からないけれど、ただ俺は、貴女が生きて、幸せでいて欲しかった。

そのままでいて欲しかった。ずっと。

その為なら、俺は貴方に求められた役割を担う覚悟も、出来ていたのに。

怖かった。


唯一違ったのは、俺が飛び込もうとした世界が、美しく思えなかったからかも知れない。

其処に、俺が愛した女神様はいないと思っていたから。




けれども、俺のことを悲しそうな眼で見つめる君は。

……本当に、彼女に似ているんだ。




「……。」


Fenrirは、冷徹に頭を擡げる。

俺は身体の重みに耐え切れず、ずるずると引き摺り落ち、また膝を崩してへたり込んだ。


狼は、俺と彼女の間に割って入ることをしなかった。

きっと、俺がまだ、彼女と碌に言葉を交わしていないことを見ていたのだろう。


Siriusが、再び彼の前に姿を現したとき、きっと俺は邪魔だったのだ。

彼の瞳は、死に別れた大狼を焼き付けるので精一杯で、他の何も写し取る暇が無かった。

だから、心行くまで、俺が泣き叫ぶことを、許そうとしてくれている。


そう思うと、俺はFenrirとは、対照的な邂逅を果たしているんだなと思ってしまって。

最後に流れた涙が頬を冷たく伝うと、それきり、彼女の像は揺らがない。


死のう、だなんて。


余りにも薄情で、自分らしかった。






だから、なのかな。

君が、そんなことを言ってくれるだなんて。



バァーン……。


遥か遠くで、獣を貫く銃声が木霊した。

空耳に違いない。

死刑宣告というのは、心臓にとびきり痛い思いをさせるけれど。

先ほどの空砲は、俺をそれほど驚かせはしなかった。

何となく、あ、死なないかも、とか脳裏に浮かんで。

そしたら、君が、来てくれたんだ……。



けれど、Fenrirが次に開いた口から告げられた言葉は。

時が止まった。



信じられなかった。







「宜しければ、我が友よ。」



「お前が今、しようとしていることの。」



「手伝いをさせて貰うことを願い出て、構わないだろうか。」





……?




今、なんて……?




「俺は、一部始終を見ていたのではない。」




「しかし、お前は…」




「死ねない、と言った。」




「違うか?」




ちらとでも、受け入れたのだな。

藁の上の死を。


「どれだけ、苦しいだろう。」


「想像するだけで、喉が裂ける。」




「Teus。」

異世界への転送の力を失った神様を、ヘルヘイムに送り届けるには、

一体どうしたら良いと思う?


そいつに、その世界へ至るに相応しい死に方をしてもらう他に無いのだ。

分かるな?




「Fen…rir……」




現行犯が、弁明の機会を得ようとするように。

嫌だ、違う、違うんだと言えなかった。

死にたくないと命乞いさえも喚けなかった。


彼を冷酷だと、罵ることもできなかった。

だって、この狼はただ優しく。

俺の傍らで尾を揺らして。

その誘惑に、寄り添ってくれたのだから。





辺りを見渡すと、俺が息を吸うのも嫌った人だかりは消えていた。


「みん、な……?」


代わりに、足取りもしっかりと取り囲むのは、別の住民。


「みんな、いつの間に…?」


狼だらけだった。


「ねえ、Skaは…Skaは、どこ?Siriusも…それから…」


「……。」




そして否応なしに、悟った。

俺の友達は、自分を救いに来たのではないと。


この狼は、屈したのだ。

ぼろぼろになるまで痛めつけられて捕虜として、凱旋を果たしたと。



生気の薄れた大粒の瞳は、涙が渇いて少しも潤んでいない。



そしてただ、何かを諦めたのだ。



「そうだ。」




「皆、お前を待っている。」




お前は、蘇るだろう。

地獄を彷徨う民としてではなく。

ヘルヘイムの女神の夫として。


そして願わくば。

この少女の父親として。




もっと、我が儘を零して良いなら。




お前は狼の、お父さんだ。




「……。」




両手をだらりと下げ、首を垂れる。




涙ばかりが流れて。

少しも声が漏れてこない。


喉を、掻き切られてしまったのかな。

ああ、そうやって、死ぬんだ。




「それで良いな?我が狼よ。」




“……主が、そう望むなら。”




「俺がやる…!だから……。」




「近寄るなっ…あの洞穴から俺が出てくるまで。」




「こいつに、誰も、牙を剥くことは許さないぞ…!」



“Teus……ティウゥゥッゥゥッゥゥゥゥゥ……!!”



“グルルァァァァァァァァ……!!ウオォォォォォ……ッッ!!”




無抵抗な友達への贐を、目撃してはならないのだ。




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