135. 灰は灰に 2
135. Ashes to Ashes 2
初めてこの森でFenrirに出逢った日のことは、鮮明に覚えている。
彼は傍らに鎮座する大岩の上で、死んだように眠っていた。
これは、まるでそのような邂逅でない。
それにも拘らず、彼女が洞穴の入り口から朧な輪郭を明らかにしたことを、まるで似つかわしい姿の現し方だと思ったのだ。
ありもしない過去と重ね合わせてしまえるぐらいには。
「ええ、また会えると思っていたわ。」
Helを流れる血は、Fenrirに近し過ぎる。
「でも残念。私が逢いたかったのは、貴方ではないの。」
Helは悪気はないと微笑んで示すと、雨模様の空の下に進んで、自らの身体を曝け出す。
「ごめんなさい。貴方が好きよ、パパ。」
「……。」
特に、揺り動かされることも無かった。
煽りを受けているとも、思わなかった。
どこまで本気であるのかと、推し量るなど、子供相手にすることじゃない。
灰色の肌からも見て取れる。
彼女の半身の皮は剥かれ、朽ちていた。
それが黒ずみとして俺の眼には映るのだけれど。
奇妙なことに、そして記憶違いでなければ。
彼女が生身を保っていた半身が、入れ替わっている。
肩の素肌を削ぎ落し、
頬の靨は、あんな風にしわがれていただろうか。
目を擦ってみても、変わらない。
右手の平に目を凝らすも、それは人間の艶を湛えているように見える。
不安が込み上げてきて、俺はそれ以上相手を見た眼で判断することを止めた。
「誰かを、探していそうだ。」
「ええ。その通りだわ。此処にいると、思ったのだけれど…」
ねえ、狼を見なかった?
とっても大きな、狼よ。
どれぐらい大きいか、伝えられそうにないわ。
けれど私のことを背中に乗せても、何ともないぐらいに、大きいの。
彼はこの森の何処かに隠れて、私が見つけるのを、待ってくれているわ。
「そうか。はぐれてしまっていたのか…」
それを聞いて、俺はSiriusが自分に託した望みが案外容易いものであることを悟り、安堵する。
単に、様子を見に行って欲しかっただけか。
釣り糸を結び付けられて、喰いつかれるのを待つ餌として放たれていたのだ。
変な気は起こさせぬよう、俺のことは、足音で常に遠隔から尾行が為されているのだろう。
だったら、話は幾分か楽になる。
俺は、俺の役割を果たすことに意識を注げば良いことになるから。
「勿論、見たさ。」
「本当に…!?」
ああ。それも、二匹もね。
つい先まで一緒に、人間の言葉で、会話をしていたんだよ。
どちらの狼を探しているかは、殆ど明らかなような気がするけれど、
念のため、その狼の名を、教えて貰えるかな?
「あら、そうだったのね。貴方。」
「勿論良いわ。だって、私が名付けたんですもの…!」
Helは、自分だけしか抱えていない世界の秘密をこっそり打ち明けるように、両手を後ろに回して勿体ぶる。
「うーん…でも、やっぱり駄目!」
「え……どうして?」
「自分の力で見つけたいから。私、ずるはしないことにするわ。」
「ごめんなさいね。がっかりさせたくないの。私とっても、楽しいから。」
ヒントはとっても欲しいけど。我慢するわ。
私と入れ違いでお家に帰っていないか、心配だっただけ。
「そ、そうか…」
俺は気を悪くなどしていないと、肩を竦めて、視線を狼のように逸らす。
「きっと、すぐに会えるよ…」
「ええ、ありがとう。」
「……。」
そうなると、俺はこれ以上彼女を呼び止める道理を失ったことになる。
子供心に疎い俺は、かくれんぼより、もっと魅力的な遊びを思いつかなかったのだ。
先を急いでいるようだし、一人で行かせても良いだろうか。
「それじゃあ、また…」
そう手を振って、その場を立ち去ろうとした時だった。
「貴方はどう?探していた人に、逢うことは叶いそうかしら?」
……。
ほら、子供は無知ゆえ、残酷だ。
「そうだな…。」
「俺も多分、誰かを探してこの森を彷徨い歩いている。」
「あら。それは奇遇ね。」
Helは腐った左手を宙に掲げて、雨の具合を確かめる素振りを見せる。
貴方は親切な人ね。
だから私も、貴方が探している人を教えてあげられると思うの。
「貴方が探している人、この奥へ歩いていくのを見たわ。 」
……洞穴の、奥へ?
そんな筈無いよ。そこは、狼の巣穴だから。
人が勝手に立ち入って良い場所じゃない。
「嘘じゃないわ、信じて?」
「疑ってなんか、いないよ。」
ただ、君と同じというだけだ。
自力で、捜し出したいだけ。
この世界にいるということが分かれば、必ず辿りつけると信じているんだ。
昔から、運だけは良いから。
「そうね。この世の果てで、きっと逢える。」
「ああ、ありがと。」
「…少し待っていて、呼んできてあげるから。」
…?
どういう、意味だ?
「貴方が逢えるように、と思って。」
「……?」
「‘この世界’ に、いるのなら。貴方はそう願った。」
「ちっ、違う…Hel!俺はそういう意味で言ったんじゃ…!!」
「でも、私はそう言って貰えて、嬉しいわ。」
突然外套も纏わぬまま、猛吹雪の中へ放り出されたように。
喉の中で吐息が凍って、息が出来ない。
彼女の言葉は、死刑宣告のようだった。
ああ、終わった。思考がすっと冴える。
「やっと、揃うんだもの。」
「き、君は…この世界にいて良い存在じゃ…ないんだ。」
首を振り、懐へ手を伸ばす。
「Hel。君をヘルヘイムへ送還する。」
マントの裏で撃鉄に、もう一度指をかける。
「いやよ。私、まだ帰りたくないの。」
「駄目だ。お家に帰ろう?君のことを心の底から心配して……」
「お家にお母さんはいないわ…!!」
「Garmは、君のことを誰よりも大切に思っているよ?」
「ええ、知ってるわ。お兄ちゃんは、私とずっと一緒にいてくれるって、約束してくれたから。」
「でも私はね、パパとママ、両方が欲しいの。」
「その方が、お兄ちゃんも喜ぶと思うわ。」
「……。」
君には、生みの親がいるだろう?
そっちの世界に、いる筈だ。
なのに、どうして出会わないなんてことがある?
何故、よりにもよって、彼女を選んだ?
この世界が、表情を変えたのは、
俺のせい、なのか?
「お願い、パパ!」
地獄の女神は、満面の笑みで、両手に溜めた雨を放り投げる。
それはさらさらと流れて、空中を舞った。
灰の息吹。
それは、彼女を祝福する力。
「私の ‘家族’ になって。」
そうだった。
愛情を当然のものとして受け止めるのに、理由などいらないのだ。