133. 芽生えの拒絶 2
133. But I won’t let this build up inside of me 2
手負いの獣とは、こうも手強いのだ。
そう痛感させられ、俺はまた一歩、一歩と退いていく。
“はぁっ…あ、あぁ……あぁっ……”
思うように、動けないのだ。
気持ちよく反応させてくれない、と言えば良いだろうか。
文字通り、足元を掬われ続けている。
まただ。また、絶妙に力の入らない体勢のまま、反撃することを余儀なくされている。
どうにかして射程圏内にSiriusを捉えることには、何度か成功していた。
圧倒的な差があるように見えて、マックススピードは互角なのだ。
殆ど交代制で、攻撃のチャンスに恵まれている。
だから、狂ったような猛攻を退けようと爪で斬撃を繰り出すと、それは効果がありそうだったのだ。
Siriusも、これは避けられまいと眼差しを険しくするシーンも、確かにあった。
だがそのたび、彼は牙を剥いて応戦する代わりに、額で俺のことを、ちょんと突くのだ。
それはまるで、おはよう、主よと挨拶をするかのように、さりげなく。
“うっ……!!”
三つ脚で立つ俺の軸を揺さぶって力を逃がし、それだけで威力を半減させてしまう。
これじゃあ、どうにかして相手の毛皮に爪が触れても、意味が無い。
俺が百のダメージを喰らう間に、Siriusは悠々と乱れた毛先を舌で舐め、繕っているのだ。
体力差が開くどころか、寧ろ身体から吸われていくようだ。
疲労で、瞼が痙攣する。
…今度は、相手が近づくターンだ。
“グルルルル……”
彼は常に、己が基本に忠実だ。
低く構え、狙いを澄ませて飛びかかるその瞬間に備えて静止する。
だから、来る、と分かるのだ。
必ずその刹那を俺に攻撃宣言として示してくれる。
主よ、ちゃんと反応するのだぞ。そう言われているようなもの。
まるで正当な決闘を申し込まれていたのだ。
読み合いの上での、拳遊び。
その土俵で、負ける。
どれだけ頑張って俊敏な一歩に対応してみても、必ず裏目を引く。
まただ、右後ろ脚で最後に地を蹴り、間合いを詰めて来るのに。
“ヴァウウウゥッ……!?”
彼は何故か、右後ろ脚から着地する。
俺が怖がって距離を取りたがり、爪を振り翳して暴れようとするのを知っていて。
寸前でブレーキを踏み、大きく振りかぶった終わりを待って、叩き込む。
ザシュ……ビチャァ……
“あ……あぁ…。”
それも相手の熟達した立ち振る舞いが故であると考えれば、合点は行っても良いのだ。
言ってみれば、俺はラスボスに立ち向かう噛ませ犬。
自分を容易くねじ伏せる描写が滑稽であればあるほど、Siriusの素晴らしさが際立つというもの。
貴方の好調の盛りをこうして実感できることが、何よりも嬉しい。
俺は、喝采を送る側なのだ。
それなのに、
嗚咽が喉から止まらないのだ。
“うぅ…”
“シリウスゥゥゥゥ………”
不安を滲ませ、その名を狼の言葉でも口にする。
確かに、ちらりと見えてしまったから。
青白い煙を身に纏っていた貴方の毛皮の裏に、
’あの’… 大狼がいた。
“いや、だぁっ…”
それは、予感として初めから孕んでいたことだ。
彼の大狼の亡骸の中に、確かに貴方は眠っていた。
“そんな、の…”
だが何よりも怖かったことは。
自分の中で見出した狂いを失い、
代わりに貴方がその片鱗を再び植え付けてしまったことだ。
“やっと、貴方に…ぼく、は…”
まずい、と思った。
もしかしたら、私は貴方から取り除き損ねたのかも。
毛皮を全て、剥ぎ取り切らねばならなかったのに。
彼のそれが、まだ何処かに植え付けられている。
それは、何処だ?
何処にある…?
“シリウ…スゥッ!!”
“……?”
でも彼は、にこりと笑うだけ。
さあ続けようと、誘うように尻尾を揺らすだけだ。
銃弾を受けた方の肩から下が、ぴりぴり痺れる。
俺は生という手段さえも、遂行できそうにないことを、否応なしに悟りつつあったのだ。
どうしたら、どうしたら良いのですか…?
どうして貴方は、悲劇を、欲するのですか?
“げほっ…ぇほっ…ゔぅ…”
ぶるぶると身体を震わせ、俺は淡白な敗北の気配に尾を垂らす。
これは、終わった。
そう冷静に、呟いてしまえる。
Siriusが差し出した前脚から伸びた爪は、
額に深々と刺さって、俺の方からは、もう身動きが取れそうにない。
“……。”
結局、貴方の牙が無くたって、私は足元にも及ばなかったということなのですね。
まあ、初めから分かり切っていたことではありますが。
しかし、それだけならまだしも、私は自らの目的に沿った死を遂げる手段さえも、奪われてしまったのでは。
一体どうやって、貴方に立ち向かう理由を、己の中に燃やし続ければ良いのでしょう?
眠いです。
もう、眼を閉じても、良いですか?
貴方がずぶずぶと汚らしい音を立て、その刀身を抜いたなら、力尽きて倒れることが出来そうだ。
それで、構いませんよね?
“……いいや、ならぬぞ。主よ。”
“……え?”
はっとして、俺は視線だけを上げて、目の前の大狼から発せられた言葉を反芻する。
今、喋ったのですか?
“Sirius……?”
“誰かの為に戦うとは、其奴の代わりに犠牲になることではない。”
勘違いするな。誰かの為と言うのなら、そいつを幸せにして見ろ。
主よ、其方自身が生き残らずに、どうしてそいつを護ったと言える。
甘えるな。我は断じて、そのような姿勢を許さぬぞ。
どちらかの降伏によって、この勝敗は決しない。
和平など、ないのだ。
我はヴァン川の向こうへ、主らの縄張りへと入り込む。
侵すのだ、それを、主は見逃すわけには行かぬ。
そいつの為に、戦ってみろ。
“……。”
そう言って、彼は優しく瞳を伏せたのだ。
“つまりは、まだ私に、死んでほしくはない、と?”
“……。”
“響カヌ、カ……?”
“ええ、ちっとも。”
まるで、空虚で。きれいごとです。
それが初めから私の中にあったなら、
とっくの昔に、私は貴方を幸せにする術を見いだせている。
止めて頂けますか?
私の前で、あの狼の毛皮を被って、繕うのは。
“……ソレハ、失礼シタナ。”
“俺ノホウガ、付キ合イハ長イノダゾ?”
“言わんとしていることが、分りません。”
“……。”
“デハ、言イ方ヲ変エルトシヨウ。”
“オ前ハヤハリ、望ンダヨウナ死ニ方ヲ選ベナイノサ。”
“……?”
“狙イヲワザト外シタト、思ッテイルノダロウ?”
“俺ハソックリソノママ、最初ニ突キ刺シテヤッタ傷跡ニ、爪ヲ喰イ込マセタツモリダッタノダ。”
“しかし主が、既の所で、避けたのだ。”
“狼の本能に従って、無抵抗であることを嫌ったのよ。”
“……どうだ。報復の種に、火が付いたか?”
“最早、主は我によって、目的を全うすることは出来ぬ。”
最後の抵抗のため、力をかき集めるのだ。
もう目の前の死から逃れるしか、主の幸せへの道は、残されていないのだから。