133. 芽生えの拒絶
133. But I won’t let this build up inside of me
“……”
“か、かっこいい……。”
思わず本心が口を突いて出て、尻尾が歓喜に震える。
布告を受けたにも拘わらず、俺は間抜けにも幸運の溜息を漏らし、うっとりと目を細めたのだ。
それは狼が一匹残らず、聞き惚れる音色に違いなかった。
こんなボスが、群れに君臨していたら。薄暮薄明の刻は、みんなそわそわして落ち着かないのではないだろうか。
我先にと挙って後に続き、終わることなく応えたがるに違いない。
そして俺が、その第一匹になりたくて、他の誰にも譲りたくなくて、悔しかった。
喉が無事であっても、応えることは出来なかっただろう。
こんな怪物が放つそれは、とても醜くて、尊い貴方にお披露目できるようなものじゃない。
きっと丸くなって、深く眠っているふりをして、やり過ごすのだ。
それはもう、目を醒まさぬほどに耽って。
すごいなあ。
ねえ、狼さん。もう一回聞かせてよ?
一緒に、歌いたいんだ。
いっぱい、練習するよ。
そうしたら、僕もそんな風に、歌えるようになれるかな?
“……。”
ずっと、蝕まれるぐらい浸されていたかったのに。
歯を食い縛ると、喉が痛んで。
目の前を覆い尽くしていた夢の続きは、滲んで溶ける。
もう挑戦する意志すら、湧き上がるのを感じない。
俺は、出来るという幻想すら見ようとしなくなったのだ。
諦観の意味で、成熟したのと似ているだろうか。
或いは、俺は今までで最も、人間に近づいているのかも知れない。
狼になりたい。
それは最も遠い存在が、叶わないとはっきり自覚してしまえて初めて抱ける渇望であるかも知れなかった。
“何処を見ておる……主よ?”
“……!?”
はっとして我に返ると、焦点が合うのを待っている猶予も無いことを察知する。
本能は、正確に先までの失敗を反復する。
四つ足であることを良いことに、後ろ脚で一歩退き、
前脚だけはその場から動かず、逃げ腰であることを晒さない。
まるで、捕食者と対峙した猫のようでは無いか。
それから、どうするかを決めるのは。
“しッ…シリウス…!!”
小さな叫び声を上げ、もう眼下まで迫っている影に怯え、きつく目を瞑る。
駄目だ、と悟った。
あろうことか、そこから一歩すら動けなかったのだ。
殺される。
またあの脳髄を揺さぶる一撃を、喰らわされる。
“はぁ……はぁっ…はぁっ…”
“そんな風に振舞ったところで…主よ。”
……。
恐る恐る薄目を開けると、そこにSiriusの姿は無かった。
何処だ?何処へ行った…?
全身を硬直させ、毛皮を触覚のようにして気配を探る。
眼球は、結び目を失ったように、激しく溝の中で回転して周囲の情景を探索した。
いない、いないぞ…!?
そして直感は、ある警告を導き出した。
―上だ、と。
過去の自分が彼に対してして見せた不意打ちを、そっくり返されているのだと気が付くのに、こんなに時間を要したのが情けない。
彼は、己の力の誇示というよりも、報復として、俺をおちょくっている。
そうして許されるぐらいの力量差が、歴然としてあると、何故前提に立たない?
ぎりぎりで気が付いたことを、寧ろ喜ぶべきか。
真上から無抵抗にマウントを取られたら、どう足掻いても抜け出せない。
爪を全身に突き立てられ、降参を泣き喚くまで首元の毛皮を剝がされる。
どの方向からだ…?
せめて相手の口がどちらを向いているかだけでも…
仰け反るようにして空を仰ぎ、俺は数刻前のSiriusが睨んだであろう、飛翔する獣の影を認める。
“え……?”
筈だった。
“い、ない…”
そこからの判断は、一瞬だった。
俺は反復させられていると、自分で罵ったばかりだと言うのに。
もっと根強い反復があったと、知っていただろうが。
そう。
俺はまたしても、首元の傷口を晒してしまっていたのだ。
貴方が殺してくれると、わくわくしながら。
震える息を殺し、眼球が零れそうなぐらいに下へ視線を引っ張る。
“そのように仰け反ることも、無かろう。”
“もはや、必要のない様式美だとは思わぬか?”
すると、彼はゆっくりと自分の頬の辺りから、顔をのぞかせたのだ。
自分の流した血を顔面に塗りたくって。
嗤いながら。
“我は、主の毛皮に突き立てる牙を、持ち合わせてはいないのだぞ?”
“う、ああ…あぁぁぁ……。”
にかっと剥かれた唇の下から、のっぺりとした歯肉が除く。
血の錆びた匂いがむわっと広がった。
そ、そんな……
まさか、そこから突き出ている突起が、
折れた牙、なのですか?
“い、いひぃっ……”
完全に脚の竦んだ俺は、奇声を上げて鼻水を垂らす。
更に顔を近づけて来る彼から、目を背けることが出来ない。
な、何をなさるのですか…?
ま、待って!Sirius、待ってください…!!
Siriusが、俺の鼻面を口でぱくりと噛みつこうとしたのだ。
“っ……!?”
それは、何も拒むべきスキンシップではない。
ちょっと積極的が過ぎる挨拶のようなもの。
余りにしつこいと、唸り声を上げたくもなるものだが、されて嬉しくないことなんてまずない。
ましてや、貴方からして貰えるなんて。
何かのご褒美だろうかと陶酔してもよいはずなのに。
ぐちゃ……
“うあ゛あ゛あ゛あ゛あっーーーー!?”
飛び上がらんばかりの激痛が、Siriusを襲ったはずなのに。
苦悶の叫び声を上げたのは、俺の方だ。
も、もう無理だ…耐えられない!!
こんなの、狂ってる…!!
渾身の力を振り絞って首を振ると、ぬるりとSiriusの口から抜け出せた。
思いのほか、あっさりと。
もしかして、本当に俺への愛情表現だったと言うのですか…?
這いずり、転がるようにして距離を取り、それ以上寄ってこない彼から、今度こそ目を逸らさぬようにと凝視する。
“し、しりうす……?”
“恥ずかしがるな、主よ。”
“え……”
“おお…其方だけは、我が救ってやろうとも。”
“……?”
“我が目的に沿って、必ず追放して見せるから。”
瞳だけは、少しの狂いも宿さず。
大狼は、より一層お道化て微笑むのだ。
狂いは、伝染する。
“主ノコト、喰ッテヤロウゾ。”