132. 似通った噛み傷 2
132. Parallel Bites 2
“げほっ…けほ、ぇっ…うぅ……”
流れが、変わりつつあると直感する。
傍観者だけが知覚しうるような運の靄が、地面を滑って目の前の大狼の方へと向かう。
それを確かに、見たのだ。
俺に味方することを選んだ運の神様が、舞台から姿を消したせいだ。
‘俺が君を、勝たせてあげるよ。’
そうか…
俺の覚悟が鈍らぬよう配慮を頂いていたのだとばかり考えていたが。
大狼たちの対話に邪魔でしか無かったTeusを、引き摺り降ろしたのには、或いはそういう意図も含まれていたのかも知れない。
“はぁっ…はぁっ……ああ。”
本能的に、尻尾が股の後ろへ身を隠す。
半ば狂うことに快感すら覚えていたはずが、今ある自我を保てないことに、恐怖を覚えていた。
こんなことって、あるか…?
Siriusは、まるで地獄と取引をしてきたのだ。
代償として、失ったものは途轍もなく。
しかしその見返りとして、彼はTeusによって手放して来た霊気を、再び身に纏っている。
この世界で、再び役割を果たすために祝福され、この大狼は…
“待たせたのう…。”
目の前に、蘇ったのだ。
ただ、俺なんかを救うために。
呆然と立ち尽くしている俺を、紳士的な態度だと捉えたのだろう。
彼は人間の言葉を口元の動きだけで再現して見せる。
“あ、りが、と、う。”
“……。”
Siriusは口を閉じていることが難しいらしかった。
口内の止血が難しいのだ。
何度も痛々しい呼吸音でくしゃみを繰り返しては、その度にびしゃびしゃの血を鼻と口から吐き出している。
咄嗟にだ。
自分の牙を二本、舌牙と爪で根こそぎ抉り取るような真似を。
迷いなくやり遂げて見せて。
少しの震えも、伝えてこない。
きっとぴたりと身を寄せても、死んだように反応が無いのだろう。
“ふーっ……”
だが、生きている。
“その自覚はあるか、主には。”
“自覚……?”
その一呼吸を皮切りに、彼は自ら被った犠牲と顔を見合わせるのを止めてしまったようだ。
“そう。今在る世界からの逃亡を希求する…その本能のことよ。”
“……。”
俺は俯き、自分の足元にこびり付いた血痕の色が突如変わりはしないかと目を凝らす。
“私は…ヘルヘイムへ、地獄への到達を目的としているのではありません。”
“ただ、貴方に逢いに行きたかった…”
Siriusは頷く。
それだけで、ほっとする。彼は、自分の純心を否定しようとは、少しも思っていないと分かったから。
“主は、あの老いぼれ共よりも、遥かに利口であるとも。”
老狼心という奴か?主のような同胞を想い、行く末を予感してしまうのは、とても非礼なことだ。
だがもし、あの軍神が我に仄めかしたことが、揺さぶりでもなんでもなく、警告としての事実なのだとしたら。
彼らは、好奇心が故に、身を滅ぼしたと教訓を得ることも出来るのだ。
それを、分かってくれるか?
未だ見ぬ世界への到達、それが我らにとっての、群れを離れての縄張りの移住、他の群れとの遭遇、或いは一生を添い遂げる番との出会いのような可能性と同じであることは百も承知だ。
主のように、望まれぬ帰結として、そうなることもあるだろう。
群れを追われる。その辛さが、次なる世界での幸せを願うきっかけとなっても、我は断じて否定はせぬ。
初めは、この世から逃れたい、ただそれだけであったとしても…!!
我には、主をそうさせてやれなかった罪を背負うための世界を絶え間なく希求させられておるぞ。
“ま、待ってくださいっ…貴方までもが、地獄の下層へ堕ちる必要なんて…!!”
“案ずるな。今は、仔守りが忙しくて、それどころではないわい。”
Siriusは笑うと、舌を垂らした。
血に浸され続けるのが、敵わなかったのだ。
良いか、主よ。
我は狼の仔が、新たなる地平を覗きたがるのを、喜んで見守っておりたいのだ。
その先に、何が待ち受けておるか、それを見抜くだけの聡明さを、狼は生まれながらに兼ね備えておる。
必ず、良い結果になると信じるような愚かさを常に理性が従え続ける筈だ。
だがもし、主の内に…
無意識に、在りはせぬか?
幸せを孕んだ世界への希求。
その逆の力が、語り掛けてはおらぬか?
“さ、さっきから何を仰っているのか…”
“そう囁きかけて来る、狼の名は、なんだ?”
“こうは、思ったことがないか?”
“自分は 苦しんでいる べきだ、と。”
“自分のような怪物は、このように 散々と苦しんで死ぬべき である、と。”
“……。”
ニヴルヘイム。
その為の世界として、恰好の楽園と言って良かろう。
悲しいことよ。
それを、我は誤りだとも思えない。
主を説得できるだけの生き方を経験出来ていないだけでなく。
我は、そのような生を準えさせることを、美化し、半ば強制してしまったような気がしてならぬから。
“何度でも言おう…”
“我は、主が間違っておるとは、少しも考えない。”
“肯定されるべきだとさえ、思う。”
進むがよい。
我らは、未だこの世界に縛り付けられたまま。
つまりは、目的を達せられておらぬ。
その目的は、手段によって、達せられるべきだ。
主の目的、しかと聞き入れたぞ。
主の手段とは、何であったか?
我自身と、同一の存在となること、であったな?
主に、あっさりと負かされるところであったな。
我を従えようとするその蛮行、再び及べそうか?
それは無抵抗な死を達成する為、我によって殺されるその刹那、
眼を閉じて、終わりを悟る暇があるということ。
主よ、我が目的とは何だろう。
もう一度死を悟る時のこと、恥ずかしながら考えて来なかった。
困ったことに、幸せであったから。それどころでは無かった。
だが今は、もし我がこの世を、死を経て去る時が来たなら。
やはり、Helの元に舞い戻りたいなと思うのだぞ。
それでいて、我には今、こうして新たな目的が出来てしまったのだ。
主を、ヘルヘイムへ至らせる訳には行かぬ。
一緒にいたいのだったな。
ありがとう。
けれども、主はきっと旅立つよ。
もっと苦しい世界を求めたがる。
そこに、主の友がいると考えるに違いないから。
止めようとする我を許せとも言わぬ。
ただ手段に没頭せよ。
我が手段とは、顧みるに、何であったか?
ああ、生まれ変わる前より、一貫してそれだ。
“我が狼たちは。”
“ヴァン川の先で、待っておる。”
“……”
初めから、我らの戦いとは、変わらない。
ただ、手段を行使し、没頭しようぞ。
その道が交差すれば、我らの目的とは、或いは変わるやも知れぬ。
Siriusは、近くにあった小高い瓦礫の上へとよじ登る。
“ならば、垣間見せん。”
そして俺を見降ろすと、すっと目を細め、耳を寝かせ。
口を細めて、下牙を覗かせ、頭を擡げる。
“アウウゥォオオオオオオーーーーーーーーー……”
“ーーーーー……。”
その遠吠えは、この世界を超えて響き渡る。
見開かれた瞳は、光を宿し。
毛皮は再び、青白い光を纏って、透き通っていた。
憧れは更に遠く、高みへと至ったのだ。
“…狼の、完成を。”