131. 狂った果実 2
131. Crazed Fruit 2
「僕はっ……僕はぁっ……!!」
息を切らし、微笑みの表情を解くことを忘れ、我が狼は叫んで負った。
「シリウスという狼に…ならなくっちゃ…ならない!!」
‘貴方のように、なりたいのです。’
主の羨望の決意を、我は墓前で何度聞かされたことであろうか。
そのたびに、まあ、満更でも無かったぞ。
主が、我と同じ轍を歩くことは無かろう。そんな根拠のない確信があったからこそ。
そうかそうか、我のような狼になりたいかと、笑って聞き入れることが出来たのだ。
素晴らしいことだ。
我が狼としての才を、そっくりそのまま主が受け継ぐことが叶うのなら。
もうきっと主は、これから出会うであろう沢山の群れ仲間を、一匹も失うことが無いだろうからな。
向かう所敵なし、とはこのことであるぞ。
狩りは須らく成就し、婚約の季節は、きっと仔狼の声でいっぱいに溢れる。
この森は永遠に、狼たちの楽園となるのだ。
しかし…それもどうやら、誤解であったようだな。
もし本当に、主が我自身と同じ命運を歩むとしたら?
そんなこと、考えもしなかっただけに。
こうして対峙するだけで、目の前の主はぼやけ、大きさを間違えてしまう。
「まだまだ…仔狼よの…」
全力で、この戯けをその道から突き落とさなくてはならぬ。
怯むな。
手加減などと、変な気は起こすな。
主だけは、我よりも不幸な狼であってはならぬ。
「フェンリルゥゥゥゥーーーーーーッッッ!!」
「シリウスゥゥゥゥッーーーーー!!」
互いが同時に、ふわりと前脚を宙に浮かせて、二本の後ろ脚で立ち上がった。
やはりそう。
此奴も幾らかは、知恵をつけておる。
本能的に、我らは体格の誇示から始めたのだ。
“ガルルルゥゥゥゥ……!!”
立派な角を生やしたエルクは魅力的に映る。
狩る側としては、貫かれる危険を伴うにも拘わらず、だ。
その逞しさを、捕食者側が認めるほどなのだから。
彼らの求婚は、いつだって願いさえすれば、殆ど成就したも当然だ。
我も主も、この森に生きる動物たちの例に漏れぬ。
羽を大きく広げ、両手を高々と掲げ、或いは胸元や、背中の毛を逆立て、膨らませ…
我らはどうにかして他者より優位を示し、威厳を保とうと試みる。
ステータスは、外観で凡そ決まる。
雄同士の戦いであれば、自身の体格をより大きく見せようと試みるのは自然の理であると言えた。
自身を最も高位に立たせようとするなら、初めの取っ組み合いはこうなって然るべきだ。
尤も、体格は全く等しく、決着がつくはずもない。
“バウウゥゥッ!!”
“グルルゥゥッ!!”
相手に胴を押し付け、大口を裂けるほどに開いて牙を剥き、唾を飛ばして呻る。
だが、どうしても相手の口を自分の口の中に収めることは無理なのだ。
激しく開いた口をぶつけ合わせるだけで、それは滑稽な接吻であった。
「ちいぃっ……!!」
埒が明かぬと悟ったタイミングさえ同時であった。
肉球でドンと胸元を押し合い、再び距離が開くと、人間の真似事は敵わぬと四つ足に戻る。
「うぅぅっ…ゔヴゥ…!!」
間合いを取って一息つくかと思いきや、我が狼は間髪入れず我の方へとに突っ込んで来る。
そんなに暴れまわりたいか。
我が心中の迷いを察し、好機を無駄にはしまいと考えてのことなら、中々に抜け目がない。
狂乱じみた主を相手取るのは、想像以上に手間がかかりそうだが。
変わらず此方は、低く構えるだけだ。
主の首元へ潜り込むことは、そう難しくないことは、分かっておる…ぞ…?
「っ……!?」
しかしやはり先までの自我を失いつつあるのか。此奴は、狼らしからぬ挙動をして見せた。
その巨体を後ろ脚で蹴り上げ、飛び上がったのだ。
まるで、我が満身創痍の獲物であるとでも言うように。
動けぬ相手を仕留めるかのような、隙だらけの一撃を繰り出して来る。
まずい…!!
完全に、裏を書かれてしまった。
一発を交わし、懐へ潜り込むことばかりを考えていた。
頭上に姿を消した尻尾を追うのに、身体は背後へ動く用意が出来ていなかったのだ。
トラバサミに脚を噛まれたかのように、動けない。
「ぎゃううぅっ…!?」
鋭利な爪がずぶりと毛皮に喰い込み、凄まじい着地の衝撃に身体が沈む。
「捕まえたっ…!!」
頭上で歓喜の叫び声があがる。
此奴は、まだ自分のことを仔狼であると思い込んでいる節があるな。
我の背中に飛び乗っても、全く問題ないどころか、格好の遊具であると見出したかのように、無邪気に尻尾が眉間をばしばしと叩く。
「うっ…ぐぬっ…!!」
そのまま押し倒され、いとも容易くねじ伏せられてしまった。
「僕の勝ちだっ…!!」
仰向けに転がされると、ぐいと顔を近づけ、そう宣言される。
涎がぼたぼたと顔にかかり、甚だ不快だった。
「や、やめろっ…!このっ…!」
聞き飽きた甘言で訴えながら、必死で相手の牙が刺さらぬようにと自分の鼻先を振り回して遮る。
刃物で喉元を突き刺そうとするのを必死に拒もうとするかのようで、情け無い。
どうにかして、脱出しなくては。
この姿勢で逆転は、絶望的だ。
「許せ、主よ…!!」
泣く泣く我は、此奴の首元へと前脚を伸ばし、ほんの少しだけ毛皮をなぞった。
卑劣な手段であると、認めよう。
古傷を、そうと知って抉るなど…
「わうぅっ!?」
しかし、予想通りに怯んでくれた。
渾身の力で腹を蹴り上げると、僅かに浮いたのを感じる。
「うおおぉぉぉっ…!!」
そのままなぎ倒すと、ぐるりと胴を転がし、今度は此方が馬乗りになる。
「さあ、捉えたぞっ…!!」
首元へ、甘噛みをして終わりだ。
敗北を悟った主は、全身の力を抜くであろう。
どうかこのまま、大人しく…
「えへへ……」
……?
何を、笑っておる?
「Boooo!!」
此奴は鼻先を自分にぎゅっと押し付けると、口を開く。
腹に溜め込んでいた臭気が、もわっと目の前に広がったのが分かった。
「しまっ……」
ボウゥゥ……!!
途端に顔面が炎に覆われ、思わず顔を背ける。
その上反射的に前脚で顔を掻こうと、拘束を解いてしまった。
やられた…完全に意識から外れてしまっていた。
我としたことが、この狼と接近戦を申し込むことのリスクを失念しておった。
再び互いの身体は転がり、形勢は逆転する。
「今度こそっ!!」
流石に二度も同じ手は喰らわない。
仔狼はいち早く自分の顎を引き、首元の毛皮を苛められる前に潜り込んだ。
ぶちゅっ…
「ゔぅ……」
「……。」
ああ、これは…。
「やられたな。」
見えなかったが、
ガブりと噛みつく感触が走ったのだ。
すうっと力が抜け、
反り上げた首元が、ゆっくりと地に寝かされていく。
悔しいことだ。
主には、駆けっこも敵わなかったと言うのに。
「流石は…我が…狼、よ……。」
狼同士の取っ組み合いでさえ、引けを取るというのか。
「当然です、Sirius。」
「私は、ただ、貴方となる為だけに、」
「こうして、首元の傷口を護ってきたのですから。」
大狼の意識は、何一つ狂わされてなどいなかった。
口の中に、狼の血が流れ込む。
あり得るだろうか。
牙に貫かれていたのは。
致命的な一撃を喰らわされたのは。
「この時を、待っていた。」
あの時とは変わって。
我が狼の、首元であったのだ。