131. 狂った果実
131. Crazed Fruit
ああ、やはりそう。
やはり、我が薄々予感した通りになるのだ。
知っておった。
この狼は、果敢に立ち向かってくると。
以前も、似たような後悔に、視界を眩ませていたような気がしておる。
何故、我は殆ど無抵抗な同胞に爪を突き立て、試すような真似に走るのであろうか。
……初めてお目にかけた時、主の存在が信じられなかったのやも知れぬ。
我の洞穴まで、どうやって辿り着いたのかさえ、聞きそびれた。
ただ、己が身は、遂に一匹と成り果てたと泣き出した主のことを見て。
嘘だ、と即座に決めつけてしまえた。
そんな不幸な狼が、この世におる筈がないと。
居るとしたら、我だけで悲しみに噎せ返るほど十分過ぎるのだから。
それに、素直に言葉を選べば、妬いておったのだ。
主は泣き叫ぶと、まともに人間の言葉も操れぬ。
しかし、途切れ途切れに語られる身の上は、なんと身を引き裂かれる受難であることか。
一匹と申すから、人間の世界からやって来たと話すから。
てっきり、我と同じように、群れ仲間を失ったのだとばかり思っていたのに。
それなのに、主は恐ろしい嘘を叫ぶ。
こんなに可愛い仔が、悪い狼だからという理由で、
父と、母狼が、主のことを捨てただと?
そんなこと、あり得るか?
どんな悪い仔であっても、主は首根っこを掴まれ、宙にぶら下げらるだけだ。
それから、ちょっとは唸り声で叱られることもあるかも知れぬが。
それでも次の瞬間には、舌で優しく全身の毛皮を舐めて貰えるのだぞ?
また、母狼の乳に、乳歯で齧り付き、啜ればよかろう。
どうして、誰かの意志で、離れ離れにさせられる?
これでは、主は……
我よりも、不幸だ。
おお、どうか。
どうか泣き止んでおくれ。
主の鳴き声は、聞くに堪えぬ。
我はこの世で最も不幸な狼であるという己惚れを、容易く打ち砕く。
到底、看過できぬぞ。
主が我よりも不幸せであることなど。
今すぐ前脚を差し伸べ、引き入れてやろうぞ。
我が、悲劇に…主を。
「やめろっ……やめるのだっ、主よ…!」
一撃でさえ、喰らわせてやる必要など無かったと言うのに。
我は、主を羨み、そして否定したがった。
どうしようもなく不運なこの狼の悲しみに引き込まれる前に。
主に、殺されたかった。
どうだろう。やはり此奴は、あの日と同じ炎を瞳に宿した。
この大狼ならば、もしかすると、叶えてくれるかも知れない。
いいや、かも知れないではなく。確信へ至ったのだな。
そう悟った刹那、此奴は何の前触れもなく、動いたのだ。
存外に、痛むよのう。
この頬の切り傷は、主との再会の証として、受け取っておこうぞ。
「おい…!どうして、向かってくる!?」
何故、腹を見せてはくれぬのだ?
主は、ようやく学び、成長したのではないのか。
狼の降伏を知り、それを大狼に強要させようとしたぐらい。
主は狼としての誇りを失わずに立ち振る舞っていたはずなのに。
「ハァッ…ハァッ…ハァッ……!!」
これでは。
まるで同じでは無いか。
まるで、夢の中で、同じ物語を何度も、否応なしに演じさせられている。
否…それよりも遥かに酷いことだ。
だって、夢の中の主は、こんな風では無かった。
「シリウスゥ…ねぇっ…ねぇってば…!!」
全くもって、噛みつこうという仕草ではない。
ただ大口を開いて、飲み込もうとするだけ。
見よ、あの不自然なまでに溢れた涎の滝を。
きっとTeusとか言う人間に、散々甘やかされて来たに違いない。
無抵抗に仕立て上げられた餌に、頬の毛が削げるぐらいに味付けの為されたやつを。
丸々と肥え太るまで喰わされたのだ。
「貴方の…こと…食べさせっ…てっ…!!」
明らかに、おかしいぞ。
滴り落ちる唾液の量が、尋常ではない。
まるで、狂った犬のようでは無いか。
「しりうっ…すっ…うぅぅっ…!!」
「食べちゃうっ……食べちゃ…うぞぉっ……!!」
この、気の触れ方。
まさか…ひょっとして、そうなの、か…?
突き立てた爪が、脳へ達して突いてしまったとか。受け身を誤り、頭を強く打ってしまったとか。
そんな事故が引き金であったなら。どれだけ己を責められただろうか。
「Fen…rir…」
ああ。もう、駄目だ。
この仔は…既に…
「主は、’取り戻す’ の意味を、履き違えておるっ……!!」
我が身を喰らってくれと懇願したあの日の大狼は、確かに寸分の想いも褪せずに其方の目の前に居る。
そうであるとも。身を以て得た知識は正しかろう。
だからこそ、森の中で狼は、最も生き永らえる獣の一つであるのだから。
主は悟った。
己が牙を突き立て、喰い殺した獲物は、やがて自身の内へと宿るのだと。
そうであるな。思い返せば。
ずっと、主の傍らにおった。
片時も離れず、見守っておったとも。
よく、洞穴の奥底で、我に話しかけてくれたのう。
聞こえて来るのだ。
丸まって、眠るふりをしながらも。
亡骸にぴたりとくっつき、啜り泣く其方の声が。
聞いていたさ。
主が懸命に走って、初めて我の口元へと獲物を運んで来た日。
大はしゃぎで歓声を上げていたくせに、我の目の前ではあたかも当然のことです、だと。
聞きたくなど、無かった。
我の古牙に、首筋を突き立て、自らの命に触れようとする其方の呻き声など。
屍は、口を閉じられぬ。身を裂かれる痛みが首元を襲ったものよ。
聞こえないふりをしていた。
主に、友達ができたと。
そしてそれは、人間であると。
ごめんなさい、と。
聞こえなかった。
我自身の完成へと至った、あの猛吹雪の夜。
主の声は、遂に途絶えたのだ。
それから、一度も。
ただ一つの息遣いも、消えてしまった。
それが再び。
主に喰らわれることによって。
我は、主が狼であることを、共有できるのかのう?
それならば…
それは、悪くないことなのかも知れない。
それは、我にとっての、幸せだ。
……。
主の内へと、我を取り戻す、か。
“グルルルル……。”
がむしゃらな連撃を後退によって回避し続けていたが。
何処かで、先手後手を入れ替えなくてはならぬ。
後ろ脚の幅を狭め、代わりに前脚を広げ、頭を降ろし。
“ヴヴウウウウゥゥゥ……。”
低く、構えるのだ。
“ふぅぅっ……ふぅ…ふぅ……ふふふっ……”
こんな不毛な論争は、早々に切り上げなくてはならぬ。
しかし一撃で終えることは、叶わぬだろう。
だからこそ、布石とは終盤に効いて来るのだ。
我はいち早く、傍らで間抜けな顔をして立ち尽くす忌々しい軍人へと目を向けた。
「うぁっ……!!」
無防備なそいつの胴を口に咥えてやると、切り開かれた地面の裂け目へ向かって猛進する。
「Siriusっ……な、なにをっ!?」
「気安くその名を呼ぶでないわっ!腹立たしい……!!」
「ちょ、ちょっと待って……」
「ふんぬっ……!!」
「っ……!?」
そして渾身の力を振るい、対岸に向って放り投げたのだ。
「うわあ゛あ゛あ゛あ゛っっっーーーー!?」
そいつは、突風に負けた落葉の如く舞い上がる。
勘違いするなよ、主を救出するためにそうしたのではない。
ただ、我々の、狼の戦いに、主の邪魔建ては不要であるというだけのこと。
「Helを……彼女を探すのだっ!!」
「必ずや……其方は邂逅を果たすであろうっ!!」
聞こえていなくとも構わぬ。
我には分かる。そうなる運命であるのだからな。
「……。」
「テュール……」
意味もなく名前を呟いたせいで。
振り返るのが遅れてしまった。
もう、すぐそこまで迫っておると言うに。
“うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――――っっっ!!!”
しかし、十分に間に合うであろう。
よろめき、つんのめり、涙でまともに前も見据えようとせず。
主は、あの日と何も変わらぬ。
ただ、立場が入れ替わっただけ。
我は、この縄張りへの侵入者となり。
主には、護るべき存在に囲まれただけのこと。
「さあ、来るがよい。」
この闘いは、初めから何も変わらぬ。
我は再び、この仔に迎えられるだけだ。