130. 第二形態 2
130. Phase 2 2
ぐわりと揺れた景色が、弾んでひっくり返る。
「うあぁっ……あがっ…がはっ…!?」
一瞬、何をされたのか理解できなかった。
俄かには信じがたい体験だ。この巨体が、何度も跳ねて転がるだなんて。
濡れた毛皮の水を弾くため、鼻先から尻尾までぶるぶると身体を震わせるのに似ていた。
異なるのは、鼻先を誰かにがっちりと掴まれたまま、身体を無理やり回されている感じがすることだろうか。
四肢が強風に煽られた枝のように撓り、胴はうねった尻尾のように拗ける。
最後のワンバウンドには、息が詰まった。
頭を強く打ち、眼玉がひっくり返って危うく帰ってこない。
「あ、ああ……」
一瞬のことだった。
気が付けば、やはりあの時のように横たわっていたのだ。
仔狼ならば、疾うの昔に殺められていただろう。
ぐちゅぐちゅとぶり返す痛みは、あろうことか、Garmが俺の顔面に突き立てた爪痕をそっくりとなぞっていたのだ。
傷口は、焼けた鉄を押し付けられたように熱いのに。
どくどくと溢れ出る血は、自分のものではないように冷たい。
そして、表情を繕うことが出来ないぐらい、顔の感覚が麻痺していて。
勝手に、涙が溢れるのだ。
「シ…リウ…ス…」
ぼやけた視界の中、あの狼が急ぎ足で歩み寄って来るのが見える。
きっと、悲しげな眼で、俺のことを見つめているのだろう。
直感的に感じた。
俺は、‘負けた’ どころではないと。
貴方の狼に相応しくなど無かった。それはもう、散々に思い知らされたことだ。
今更こうして無様に倒れたところで、自身の価値はもう大して下がる訳じゃない。
だがもっと酷いことに。
俺はこうなると分かっていて、Siriusに歯向かった。
それはつまり、この大狼の敵としての存在意義を得てしまったということ。
「……。」
立ち塞がって、得られるものが崇高であるなどと、夢見ているのだ。
それ自体は、まあ、けっこうなことだろう。
俺が目指そうとした未来は、それはそれで、きっと物語として楽しいものだ。
彼がもし読み手に回ったなら、そう認めてくれることもあるかも知れない。
あとがきの辺りで、俺はようやく、自分のしたことを肯定しようなどとするのだろう。
しかし、成就させようという意志は希薄だ。
その生き方さえも俺は今、否定されようとしている。
ああ、結局どうしたいのだろう。俺は。
もう、どうでも良くなってきたな。
別に、Siriusの復讐劇を手伝うのだって、喜んでしたいのだ。
ひょっとすると、俺は案外、大勢の人間を目の前にして脚が竦まない。
仮に怖くたって、貴方が隣にいてくれたなら、俺は厭わず牙を濡らす。
そして全て終わったなら、一匹でヴァン川の畔からは離れて生きていたいと思っていたけれど。
もしSiriusやSkaたちが誘うなら。新たな群れ仲間に加わるのだって、構わない。
俺は、平常心を保って、そのうちの一匹として溶け込めるような気がしている。
それは…幸せだ。
とても。
とても。
「主よ…」
「我が、おお……狼よ……」
Siriusは、声を震わせ、俺の傷口に向って、恐る恐る鼻先を近づける。
「済まなかった……」
そう言って、毛先にこびりついた血糊を、舐めとっていく。
「本当に…済まなかったなあ……」
「……。」
完全に、無防備なのが、見て取れた。
俺が微動だにしていないのだから、当然と言えばそうかも知れない。
けれど、それだけじゃあ無いんだ。
あの時と、全く変わらない。
Siriusは、幾らでも待ってくれた。
俺の、決意が漲るまで。
あの時から。
ずっと。
「Sirius……。」
「ありがとう。」
俺はゆっくりと右眼を見開き、尻尾を地面にゆるゆると擦り付ける。
そして、微笑んだのだ。
「ありがとう……!!」
狡猾な口端を吊り上げ、舌を垂らし、
前脚から尖った爪を伸ばし、頬の毛皮に触れて。
大狼の瞳に映ったその表情に吐き気を催しながら。
歪んだ決意を、口にする。
狼にもなれず、人と戯れる怪物としての自己も達成出来得ないのなら。
「やっぱり俺 … ’Siriusになりたい’ です!!」
こいつのこと、食べてしまおう。