128. 様式美
128. Form of Elegance
もう、Siriusは疲れてしまったのだ。
長話に相槌を打ってばかりで、半ば微睡みかけていたのかも知れない。
がっくりと膝を折り、腹から崩れ落ちたのだ。
「うっ……?」
顎が地面に直撃したせいか、驚いたように目をぱちくりさせる。
まるで何が起こったのか、把握できていなかったのだ。
そしてそのことを、自分自身が認められずにいる。
「あ……あぁ…」
Helがこの軍神によって発砲されたと、最悪の事態を予見した時の、怯え。
全身によって恥じることなく表現された恐れが、再び自覚なしに垣間見えたのだ。
「そう、か……」
死を、悼んでいたのだ。
想像もつかない、どのような世界であるのか。
その眼で睨み、子細に語りたい欲求に駆られる。
それも、Siriusの耳に届くような大きさでだ。
ヘルヘイムよりも、遥かその最深部。
その一端が、すぐそこまで迫り上がっている気がした。
世界の遠近を感じる才が芽生えた瞬間だった。
さては、そこに隠れているな?
強烈な、幾多の誘惑の魔の触手が、
右手に伸びる大地の亀裂から、溢れて来る。
まるで、寝床に潜んだ隙間だ。
未知の世界というだけで、俺はその淵に腹ばいになって覗き込みたい。
変な気を起こしさえしなければ、安全である。
そんな根幹をぶち壊す背徳感に、軽い気持ちで毛皮を擦り付けながら。
「Niflheimr……」
地獄界の女王が、そうと認めた悪人だけが歩むことを許される世界。
そっくりの二人が、両手を繋いで、大河に足を踏み入れる様が、想像される。
魅入られたのだ。
俺の中で醸し出された欲望の類に。
あの兄弟は、耐え切れなかった。
Siriusの両目から、ぼろりと涙が零れる。
「それで、満足なのか……?」
捨て去った世界のことを、考えもせずに。
気の赴くままに、足を踏み入れて、我に復讐を為したつもりか?
ヴァン神族の長としての責務を、立派に果たし。
ようやく、狼を阻む転送の罠を、完成させたつもりでいるのか?
もう二度と、ヴァン河は渡らせぬ。
主に、主らに逢いに行くことは許さぬ。
つまり我の、完全なる敗北である、と?
「……。」
「なあ、主よ…?」
「我は、もう…」
「この世を歩く意味を、失ったのか……?」
一生を、若者の簡単な言葉で否定されたような。
可哀そうなぐらいに間抜けで、狼狽えた表情を隠せない。
「わからない……です。」
代弁者のつもりだろうか。
Teusは沈黙に耐え切れず、そうとだけ漏らした。
こいつは、やはり軽はずみな男であったと思う。
咄嗟の行動に迷いがない。その裏返しとして、適切な人物像だった。
こいつは、やはり他人への思慮に欠けた男であったのだ。
いくら傷つけたって、この大狼が倒れぬと思い込んでいた。
感情に身を任せて、結果がどうなるかを顧みなかった。
というか、それで解決すると思い込んでいた。
確かに、これはある種の終局には違いなかった。
だが、そんな風にして勝利を手中に収めるほど、お前は運が良い奴だったのか。
「私が言いたいことは、それだけです。」
「Sirius……終わりにしましょう。」
彼は武装された言葉の全てを捨て、鼻先に跪く。
口調はまるで俺に対して接するように、優しかった。
そうだよな。
お前は泣いている奴に、こんなに優しい神様なのに。
なのに、どうして。
彼に伝える必要があった?
俺には、いっつも何も教えてくれないくせに。
その時が来た時に、俺が受け入れられないぐらい大きな悲しみを。
口元に突っ込んで、動けなくさせるのか?
「君だって、本心は俺と同じはずだっ!!」
「うぅっ……!?」
突如響き渡った、耳障りな戦士の雄叫びに、Siriusはびくりと身体を震わせる。
「この戦いは、一匹の狼の命運を担っている。
その為に俺たちはこうして対峙し、相手を突き動かす様な言葉を投げ合っている。」
「だが結局は、彼の意志に委ねられている。」
これは俺たちの口論のようで、最終弁論に過ぎないんだ。
「ただそれでいて、もうFenrirに辛い意思決定の場を設けさせたくない。違うかい…?」
「Fenrirは、心の底から君について行きたいと思ってる。それは俺も分かってるし、その通りにさせてあげたいんだ!!」
「けれども、こいつは…Fenrirは、良い仔だからっ…素晴らしい狼だから、ほんっとうに優しい、大狼だから…!!」
「俺見たいな人間や、そいつと仲良くなった狼の友達のことを、どうしても忘れられないんだっ!!」
「もう、迷わせるのは、やめさせてあげよう?Sirius。」
「これは、俺達で決めるべきことだ。」
「彼に道を選ばせて、責任までも負わせるのは、不本意なんだろ?」
「俺は、俺が為すべきことを、させて貰うよ。」
「…よもや、主と意見が合致することがあろうとはな。」
「主よ、名は、なんと言ったかの。」
「Teusだ。」
「テュール・ヴァン・ヨタン…アズガルド」
いいや、違うか。
もう、腐りかけているのを忘れていたよ。
ゾンビってのは、その自覚が無いものなのかね?
「テュール・V・J・ヘルヘイム。」
「確かに、征服王と言っておこう。」
「君の主を、撃ち殺した男だよ。」
Teusっ……!?
“……グルルァァァァァァァァ……!!!!“
殆ど消えかけていた火種が、燃える。
この臭いは、この声は、我が殺した人間の友のそれではない。
我から姿を隠して、勝った気になっておる、彼奴らなどではないのだ。
違う。こいつは…
こいつは、狼の友などでは、
断じてないのだ。
“テュールゥゥゥゥッ……!!!!”
“貴様だけはっ……貴様だけは我が地獄へ連れて帰るっ……!!”
「そう…そうだ。」
「それで良いよ。Sirius。」
「ごめんね。」
Teusはマントの中にしまい込んでいた右手を、大狼に向って差し出す。
素肌を隠したまま、赤いシミで汚れた長い布地が腕の形に沿って垂れた。
一瞬、彼の手が、欠けているように見えた。
カチンッ…
……!?
「ティウッ……!」
いいや、違った。
彼の外套の下で角ばったそれは、食い千切られた腕なんかじゃなかった。
「本当にごめん。」
完全に接近を許した大狼へ向けられた。
銃口だったのだ。