126. 低く構えよ 5
126. All Time Low 5
「減らず口を……!!」
立場も弁えず、決死の交渉を持ち掛けるところまで、漕ぎつけたつもりか?
情けないこと、この上ないではないか。
ヴァン神族と狼たちの趨勢が、こんな半端な覚悟に委ねられようとは。
「貴様は、狼と約束を交わした経験が無いと見える……」
Siriusは俺がよく悪者ぶったときにそうしたように、ニタリと口の端を歪め、そして腹の毛皮を大好きな両手で撫でられたように、目を細める。
この場で主の命を奪い去っても、構わないだあ?
片腹が痛いぞ。
それで我に、保険を掛けたつもりか?
そういう時、人は一番懸念していることを口走るものだ。
さては、主よ。我にこの場で胴より上を食い千切られては、都合が悪いのだな。
勇敢な戦士が、聞いて呆れる。
まさか、死を恐れることがあろうとは!
それは何故だ?
ヴァン川の対岸に、主はどうしても帰らねばならぬと?
さしずめ想い人でも、おるのだろうよ。
主からは、あのヴァン神族とやらの臭いがこれだけ近づいても漂わぬ。
それでいて、自分は彼奴らの長であるとか、抜かしていたな。
経緯など微塵も惹かれぬが、つまり主は、征服王のようなもの。
婚約相手とは、いわゆる王女様のようなご身分に相違あるまい。
大層立派な成り上がりであることよ。
それでは、安易に命は落せぬ。
まだまだ、主の栄華はこれからというものよ。
からかっていると、感じるか?
主が、我の歩む道を ’覇道’ などと抜かしたからだ。
そっくり、返してやっただけのこと。
いや、返してやるとも。これからな。
「……どういう意味?」
引き裂かれるなど、想像もしたくはあるまい?
主が多くの犠牲を払ったうえで、帰還を果たしたとしてもだ。
「もし、番の死にゆく瞬間を、看取ることになったら、どうする……?」
「Sirius。お前、何をっ……」
そう言いかけて、はっと口を噤む。
「彼女が、どうしたって言うんだっ……!?」
「その場に居合わせることさえも、贅沢よのう?そう思っただけのことだ。」
「お前が彼女を殺せるはずがないっ!!」
「くくくっ……何処までも、主は人好しよの。」
そんな顔をするな。例えばの話だ。
だが、まさか主は、自分の家族を脅かす存在が、目の前で憎々し気に牙を剥く怪物だけであると、楽観視しているのではあるまいな?
「Fe、Fenrirが君に味方すると思ってるならっ…」
「主の ‘家族’ に、母親は一人で十分だと言っただけだ。」
「……っ!!」
今度は、SiriusがTeusを試す番だった。
彼と決定的に違う点は、この狼が、Teusの決心を揺らぐ様が手に取るように分かり、それが心から楽しいと尻尾に書いてあることだろうか。
「おお!なんという悲劇の主人公だ!ヴァン神族を統べる者よ!!」
大狼はいとも簡単に軍神がマントの中に隠した傷跡を嗅ぎ当て、それがどのように痛むのかを丁寧に共感して見せた。
満足そうに溜息を吐き、Teusの青褪めて苦痛に歪んだ表情を眺める。
悪役であることを観衆に示すためなら、彼はその表情が見たかったと叫ぶことも厭わなかっただろう。
そしてTeusは文字通り、笑うことしか出来なかった。
「お人好しねえ……」
「ああ。良く言われるよ。」
「ほう…?」
「Freyaにか?」
「え……?」
「今、……。」
「っと……」
「口が、滑った。」
余りにも気持ちが晴れてしまったものだからな。
つい、口走ってしまったぞ。
「俺は、彼女としか、言ってない…」
「そうだったかのう…?」
「覚えていてくれたのですね……!?」
Siriusが小さく舌打ちをする。
面倒な綻びを、自ら晒してしまったのは、間違いなく致命的な失態であったと認めたのだ。
「それは、人の名であるからな。」
狼には、そうした呼び名が不要であると述べただけのこと。
何も矛盾はしておるまい?
「聞いてください、Sirius!Freyaは今……」
「彼女のそれからの暮らしなど、興味無いわっ!!」
「ですが、Freyaは君のことを覚えてるっ!!」
「自分を攫った大狼が、余程トラウマになったようだな。」
「会いたがってるんだっ!!」
「ならば叶わぬ夢だろう!!」
「「……。」」
双方が喉の枯れるほどの声量で、言葉をぶつけ合う。
届かないと分かっていながら、そうするから。
束の間の静寂は、忽ち居た堪れない。
「それは……」
「ちと言い過ぎたやも知れぬ。」
「しかし、もう一匹の狼が、我の代わりを果たすことぐらい、容易いであろう。」
「言ったはずだ。」
「‘家族’ は、二つもいらない。」
不愉快だ。
主に向けて放った言葉が、そっくり自分に返って来るのは。
しかし、我にはお似合いということなのだろうな。
「どうしても、会いに来ては…くれないのですか?」
「ああ。いずれ再開を果たすことになっても。」
「しかしそれは、主が望んだ方法によってではあるまい。」
「決してだ。」
「……。」
Teusは、愕然と肩を落とし、項垂れた。
きっと、本当にがっかりしたのだろう。
彼女を喜ばせるためなら、どんなことだってしそうなお前だから。
しかも、これは俺自身が一番良く知っていることだが、Freyaは自分の姿や臭いでは、満足しない。
きっとこの身体の何処かに、貴方の面影を垣間見ているに違い無いのです。
だから、俺の方からは、会いたくないのだ。
彼女が憂いの色を濃くするからというより、俺が貴方への遜色の自覚を濃くするから。
育ての親には、違いありません。
俺は知っている。
貴方がHelに注ぐような笑顔を、彼女にも向けてあげていたことを。
Teusは、知らない。
貴方が彼女を人里へ返す決意をしたとき。
自分をいつか呼んでくれる日を約束したことを。
Sirius…貴方は…
「わかった。」
「でも君は、愛した人間の名前を憶えていた。そうだね…?」
「何が言いたい?」
「じゃあ…じゃあ、当ててくれよ。」
言っただろう?
ヴァナヘイムに、どうしても、君に合わせてあげたい狼がいると。
その狼の名前は、興味が無いみたいだ。
それは、とても残念。
産まれた仔の名前を一匹ずつ考えるのが、毎年の愉しみだっていつも話していたから。
「そんなもの、知ったことか……。」
「けれど、名付け親っていうのは、狼じゃあない。」
「人間だよ。神様だ。」
「覚えているんだろ?」
君の、親友の名前。
俺の、ただ一人のヴァナヘイムの友人でもある。
もし良かったら、教えてくれないか?
ほら、大ヒントだ。
これで、わかる筈だよ。
「Sirius……いいや、Garm。」
「あの人に……最近、地獄で会わなかったかい?」