126. 低く構えよ
126. All Time Low
「もう良いっ…良く頑張った!!」
「君は…立派にやったんだ!」
喉元から聞こえた、力強い労いの言葉。
それで心からほっとしてしまって、何とか張り続けていた糸が切れる。
俺はがっくりと膝を折り、その場に堕ちるように伏せてしまった。
落下の感覚も無いほどに力が抜けて、前触れもなく腹が弾む。
続くように顎の辺りを地面に叩かれ、顔が弾んだ。
「うぐぅ……う…」
「げほぉっ…ぐふっ…」
堪えていた咳と共に血反吐を噴き出し、すっきりとした俺は、目の端から伝う涙に誘われて、微笑んだ。
泣かないように息を吸うと、ぶすす、ぐす、と鼻から変な音がする。
放出し切ったのだ。
憧れの大狼に披露したかった、全てを。
達成感だとか、遅れて襲ってくる心地よい疲労感だとか、そういったものは、まるで現れてこないけれど。
形だけの、ぼろぼろのそれではあったけれど。
俺は、吠えて、狼に応えた。
完璧とは程遠く、理想を超える想像のようには行かなかったことを、今までの俺なら目を真っ赤に染めて猛り、認めようとしなかっただろう。
喩えSiriusに同じことを言われたのだとしても、自分自身が許さなかったはずなのに。
悔しいことだ。
彼の肯定は、幾らでも俺を諦めさせる。
堕落、させるのだ。
目を瞑って、とても良い気持ちで苦しんでいると、自分の首元から、くぐもった声が聞こえて来る。
「……!?……っ!!」
何だ…これは、俺自身の、人間の言葉を操る声ではなさそうだが?
「Fenrirっ……」
……?
「おも、重たい…」
……し、しまった…。
こいつ、俺の首元で下敷きになっていやがる。
遠吠えの長引く声が消えてなくなるまで、ずっと抱き着いてくれていたせいで、逃げ遅れたのだ。
まずいぞ、ぺしゃんこになってしまったか?
は、早く、Teusを解放しなくては。
寝返りを打ちたいところなのだが、その気力さえも沸いてこない。
お前は、昼寝に最適な形状をした枕となってしまったようなのだ。
渾身の力を振り絞って出来た動きというのが、顔を少し傾けて自分が楽な姿勢になるだけという怠惰っぷりだ。
「も、もう…仕方ない…や、つだ…よ…」
「す、すまな。い…」
結局何も手伝ってやれなかったが、Teusがもぞもぞと俺の喉元で蠢き、何とか脱出を試みているのが分かる。
運のよい奴だ。挟まって動けないということは、無いのだな?
「ごめんね…くすぐったい、でしょ…」
「あ、ああ……」
けれども、お前がずっと真下で寝転がっていることのほうが、遥かに居心地が悪いのでな。
どうにか、逃げ果せてくれ。
時間はかかったが、柔らかな毛皮が生えた天井の低い洞穴から這い出て、彼はどうにか自由を取り戻す。
「ありがとう。Fenrir…」
よ、良かった…
Teusは自分が無事に脱出できたことを示そうと、俺の隣まで歩み寄って頬の毛皮に触れる。
そして、決意をひた隠して、こう呟いたのだ。
「後は、俺に任せて。」
……?
何を、するつもりだ?
そう尋ねる間もなく、彼は最後に愛おしく自分のことを撫でてから、名残惜しそうに右手を離す。
心細い。
俺はとうとう、舞台から降ろされてしまったのだ。
これからの対話を、観客として見届けなくてはならない。
「待たせたね…」
そして神は、もう一匹の狼と対峙する。
「そういう訳さ。」
「君の言う通り、俺は構図を履き違えていたみたいだね。」
誤った対比、確か大狼は、そんな言葉を使っていた。
「これは、‘俺と貴方’ の間の戦いであるようだ。」
標的は、初めか見誤るべきではなかったんだ。
俺の相手は、初めから君だった。
「覚えているかな…うん、きっとそうだ。」
「言ったよね?俺はもう、非力な人間の皮を被ることなんか、出来ないと。」
護れない。
こんな風に突っ立って。
人間の振りをして、この狼を偽っても。
彼らは俺の意志に関係なく、死んでしまう。
そんなこと、もうごめんだ。
でもね。
俺が、偽りなく神様であることを振り翳したって。
結局は、狼たちの虚しい殺し合いに手を貸すだけなんだ。
「傍観者でいては、ならない。」
俺が、この戦いを担う側に回るんだ。
「君が乗り越えるべき相手は。」
「この俺だ。」
Teus……?
「そのようだな……。」
彼が ’覚えている’ と踏んだ言葉に、実際に行き着いたのか。それは分からない。
「我らは、このような対話の時間を望んでいた。」
けれどもこの大狼は、初めてこの神様を、同じ土俵へと導き入れたのだ。
「Sirius。」
Teusがその狼の名前を、当たり前のように固い存在として呼ぶことが、とても奇妙な感じがする。
きっと、この大狼がずっと、俺の心の中に仕舞われていたせいなのだと思う。
実在する狼として、俺以外の存在と作用しあうことを目の当たりにすることに、慣れていない。
「Siriusは…ヴァナヘイムを探していると言ったね?」
「ちょうど良かった…君は、運が良い。」
その道探しに、これほどぴったりな出会いは、無いんじゃないかな。
「俺だよ。」
……?
「今の、その土地の主は…この俺だ。」
「ほう……?」
Siriusの首の後ろの毛皮が、ぶわりと逆立つ。
「そいつは存じ上げなかった。」
口調こそ荒げぬ紳士さが彼を抑えたものの、その一言は、間違いなく彼を揺さぶった。
「…お会いできて、光栄だ。主よ。」
「それは、どうも…」
不穏な暖風が流れた。
如何にも狼の装いと言ったところだろうか。丁寧な言葉遣いに、獣の牙がちらついて光る。
「ヴァン神族の長として、俺は君に伝えておかなくてはならないことがある。」
「…聞いてくれるね?」
「……。」
沈黙を是とすると、Teusは持ち前の勇敢さを発揮し、目つきをますます険しくするSiriusに臆することなく喋り出した。
大狼がヴァナヘイムを襲ってから。
俺さえもその知り得ぬ、後日談を。