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125. 劣等の完成 3

125. Born of Inferiority 3


俺にできることは、そう多く残されていない。

逃げるんだ。


敗北を悟った獣は、人間に撃ち殺される前に、尻尾を巻いて姿を隠すしか手立てはない。


子供の思想に、爪を立ててしがみ付け。

見えないものは、無いという唯識の思想だ。

目の届かぬところまで隠れてしまえば、こんな狼は、Siriusにとって存在しないのと同じ。

俺もまた、貴方のことを想って、くよくよと考えずにいられる。




そこに、深い谷間があるな。


飛び込むんだ。



そうすれば、俺は。

こんな汚名に悶え苦しまずに済む。

貴方も、どうか失望に余計な時間を費やさずに。



ありがとう、ヨルムンガンド。

そのための、言わば脱出経路だったなんてな。

怪物同士、良い兄弟ということにしようじゃないか。


「うぅ……うぇぇっ…うぇぁぁ……」


最後の力なんて、二度も振り絞れないとは言え。

この期に及んで、俺は仔狼よりも無力で、頑張ろうという気概に欠けていた。


脚を人間の倍だけ持ち合わせておきながら、どうして立つことさえもままならないのか。

ぐらぐらと傾く視界をどうにか水平に保ち、引き摺るように、転がるようにして歩く。


「しりうすぅ……うぅぅっ……」


鼻水をだらだらと垂らし、涙で目の前はぐちゃぐちゃに歪んでいた。

何回も膝が折れて、無様に躓いた。


もう、脚が無ければ良いのに。

そうしたら、蛇のように、腹ばいになって。

地べたを這いずり廻ることができるのに。


「ごっ……ごめんなざいぃぃっ……!!」


こんなこと。こんなこと、言いたくないのに。


「とおぼえぇっ……でぎなっ…かったぁ……」



「ごめんなざいいいい……!」



偉いぞ。最期に、よく頑張った。

絞り出すように、伝えたかった言葉だけは吐けたんだ。


もう良い。


一生をこの瞬間に込めてこのざまなら。

死後の世界を歩き続ける中で、きっとこんな失敗も悔やんで時間を潰せるだろう。

狂うよりも、遥かに充実した永遠だ。


ぐるぐると、同じことを悩んでいよう。

忘れてしまうよりも、よっぽど良いと知っている。


「あ゛うぅっ……うぅぅ…うぇっぇぇ……」


また、何もないところでつんのめった。

ちゃんと前が見えていない証拠だ。

間抜けな獣だな、よくその為体で、この森を十数年も生きてこられたものだ。


だが、些細だ。

歩き続けることは叶う。

ぼやけた障害物は、俺が突き進むのに、大した時間を奪わない。



けれども、最後の最後まで。

全ては上手くは行かないのだな。



その小さな木立は、恰も俺の行く手を遮ろうとそこに根を生やしているかのように突っ立っていた。

邪魔だ、と叫べば、道を譲ってくれそうなぐらいの細身だったけれど。




そいつは、どかなかった。




それどころか、今にも折れてしまいそうな枝を持ち上げて。

俺のことを、力いっぱいに殴ったのだ。


「うっ……?」


その細枝が、鼻先を殴ったという感覚があっただけでも驚きなのに。

存外に重たく響いたことが、今の俺が虫の息であることを如実に示していた。



ああ。率直に言って、かなり応えたのだ。


「ティ……ウゥ……?」




本音を吐露すれば、お前のことを、半ば忘れかけていた。

それだけSiriusの呼び声というのは、強烈に俺の本能に語り掛けていたのだ。

その誘いは、抗い難く、靡いたのではなくて、呼び覚まされたような。

尤も、それも勘違いに過ぎなかったようなのだが。

今は、笑い話も気分では無いだろう。


募った憤怒が、可愛らしい形式で彼なりに示されているのだと分かった。

色が変わるぐらいに固く握られた両手の拳が、代わるがわるに鼻の付け根を何度も叩く。

それが俺を少しも傷つけないのだと分かっていながら殴るのは、まるで子供の粗野な訴えのようで耐え難い。

いや。それどころか、今はその程度でも、けっこう痛いのだぞ。



鼻を突かれて分かったことなのだが、その度に俺は顔面を殴られたように目を瞑ってしまう。

湿った皮膚がぶるんと揺れるたびに、瞼を反射的に閉じてしまって、涙がぽろぽろと零れて落ちる。


「……っ!!……っ!!」


そして気が付けば、曇っていた視界が、次第に輪郭を取り戻し始めていた。

不思議なことだが、それに伴ってお前の声も、言葉として意味を持ち始めたようだ。


ポカポカと両手を振り回して、彼は何かを訴えている。


「…ばかぁっ……フェン……リル……!!……れ…よ…!……ば……か……!」


……?

ああ。大バカ者である、と?

途切れ途切れではあるが、そう聞き取れた。

別に今に始まったことではないが、お前の悪口というのは、殊更明瞭に耳に届くようになっている気がするのだ。

よくSkaに向って話している風を装って、俺への不満を間接的に吐き出していたものだ。

今思えば、あいつも堪ったものでは無かっただろうな。とんだ良い迷惑だ。

だからと言って、直接自分に向けて放つと、簡単に俺が折れてしまうとも知っていたのだ。

Teusは、俺が泣き虫でどうしようも無いことを、昔から気にかけては一緒に泣いてくれていたのだから。



だからこそ、いつも彼は俺に。

自分との緩くて、細い逃げ道を用意して、しかもそのままにしておいてくれた。



「……ご、めん…なぁ……」



当然のことだ。

こいつは、裏切られた気持ちでいっぱいなのだろう。

いとも簡単に、狼へと靡いたのが、信じられなかったのだ。


あれだけ、お前を護ると抜かしておきながら。


この森から、Teusを生きて返すと、確かに決意を示した。

狼から受け継いだ知覚を総動員し、ヨルムンガンドがお前を毒で侵さぬよう、慎重に立ち回って来たと言うのに。

一対世界全員の構図にも怯まず、身を挺してGarmが率いる地獄の死人の大群からお前を庇って来たのに。




たった一匹の狼の呼び声で。


お前のことなど、どうとでも良くなった。




この大狼が向かう先で何をしようと、その意思が自分のものだとして構わなくなった。

寧ろ、喜んで群れの長の役に立とうと役目を買って出ていただろう。



それだけ、彼の魂の招集というのは、俺にとって大きな意味を持っていることも、お前は分かってくれていたことだろう。



けれど、いざそれらを天秤にかけた時に。


やっぱり、赦せなかった。

俺のことを、欲して忘れられなかった。




たったの一夜と、これまでの一生をかけて寄り添った、青い世界の幻の大狼と。


たかが一年余りと、これからの一生を歩くことを選んでくれた、嘗ての心優しい神様と。




お前は、どちらを選んでくれるのかと、ずっと不安で堪らなかったんだ。




別に自分じゃなくて良いと、初めから決めていたのに。



なんというか、やっぱり。

俺の本心が後ろ髪を引かれることを期待してくれていたのだと思う。




それぐらい、特別な時間の意味を、こいつは信じていたのに。




それを、こうして裏切ることになって。




その上、選んだ道さえも、成就せずに終わって。




このざまを、互いに見届けられてしまって。




本当に、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。




「ティウゥゥ…ごべん……ごっ……めん…なっ……」




なるほどな。

これが、お前の名付けた、’怪物’ だった訳だ。




「あっ……あうぅ…う゛ぅっ……!」




良いだろう。気が済むまで、殴りつけてくれ。

それで口を突いて出る言葉を、俺はお前の本心だと思って、受け止めることにしよう。




ありがとう。




俺のことを、友達の一人と信じ。

そして、怒ってくれて。




飛び降りるのは、あと少しだけ待ってやっても構わない。



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