123. 風が撫ぜる 2
123. Zephyr brushing 2
「うっ……つっ……」
それでも、勢いよく動くのは躊躇われたのだが。
おっかなびっくり立ち上がるも、右後脚は存外、自在に動く。
具合を確かめようと尻尾を追いかけて一周して見せるも、全身に噛みつくような痛みは、もう襲ってこない。
負傷部に熱こそ孕んでいたが、それ以上身体は悲鳴を上げて訴えることをしなかったのだ。
「ああ。それにしても、やられたな…これは…」
彼は、この西風が心地よいと、毛皮を靡かせて微笑む。
「…これは、とんだ大誤算だ。」
「そうは思わぬか、我が狼よ。」
ええ。全くもって、その通りです。
こんな結末、一体だれが予想できたと言うのでしょうか。
もう一度、この世で大狼と逢えるだなんて。
あの時の貴方も、そう思ったのではありませんか?
飛び上がらんばかりに喜んだ私と違って。
貴方は、がっかりしたのかも知れないけれど。
「我の、負けだ。」
「私の、負けです。」
……。
そう言うと、思っていました。
そう抜かすと、思われていたのでしょうけれど。
「貴方は、先にTeusの元へとたどり着いた者が、勝ちだと言った。」
決定的な事実です。
貴方はいち早く、この男のことを口元に咥え、ヨルムンガンドの一撃から掬い取ってしまった。
私の牙では、届かなかった。
救出劇に居合わせるので、精いっぱいでした。
この神様の代わりに、どれだけ礼を尽くしても足りません。
「でも、でも…最高の瞬間でした。」
「Siriusは…なんてかっこいい狼なんだろうって…!」
「いいや…主は、我よりも早く、目的の地へと辿り着いた。」
「我はその狼を、勝者とすると決めたはずだ。」
この神がいた、此処では無かろう。
主と我が走り出した、あの場所がスタートラインであった筈だ。
そこには、誰よりも早く主が走った。
「それは…」
「それは、違います、Sirius。」
俺はゆっくりと首を振り、口答えする。
「少なくとも、勝ったことにはならないっ!!」
そう、勝ったという実感は、まるで無かった。
もし仮に、Teusがゴールで大人しく俺たちのことを待っていてくれたのだとしても。
勝ちを明確に拾っていたとしても、まぐれか、不当な評価だと思ってこんな気持ちでいたに違いない。
そもそも、貴方は余裕をもって、私より先にこの近くまで辿り着けていた。
こいつが響かせた銃声が無ければ、立ち止まることも無かったはずだ。
私が貴方と一緒に再び走り出した時点で、実際には大きな差が開いている。
周回差をつけられているようなものです。
貴方にとってのFinal Lapであっても、私はもう戦う前から負けている。
それに…仮に、互いが同じ距離を走っていたのだとしても。
「ほんの一瞬、一瞬だけ…貴方を追い越せただけに、過ぎません。」
確かに、私は一度だけ、貴方に自慢の尻尾を披露することが出来ました。
ずっと、待ち焦がれた瞬間だなんて、とんでもない。
息が切れかけたとき、私の目の前には、ずっともう一匹の美しい尻尾が揺れていたから。
その靡く青い煙に、追い付けるだけで良かったんです。
横に並べるだけで、良かった。
息が切れるまで、出し切りました。
この瞬間の為に、私は喉を責め上げてきたような気さえします。
脚の回転なんて、限界をとっくの昔に超えていた。
どうやって走っているのか、自分でも分からなくなって。
貴方が視界から消えた瞬間、維持することはもう不可能でした。
そう、そこから先が、本番だった。
ようやく私は、同じ土俵に立つことができたところだったのです。
そこから、僅か数秒の世界で。
駆け引きも関係なく、心行くまで全力を出し切った私と貴方で。
永遠に思われる瞬間を走り続けて、ようやく決着するはずだった。
「それを、俺は…転んでしまったのです。」
その時点で、負けだ。
「それで…それで、良い。」
どうして、転んでしまったことが、いけないことか。
それを俺は、身を以て思い知らされた。
「’死に体’ では…駄目なのです。」
そう口にしたとき、彼の耳は殊更にぴくりと弾けて横に靡いた。
貴方がいなかったら、Teusはどうなっていたでしょう。
俺は、この友達のことを守れると、本気で己惚れていました。
この神様がそうさせてくれるから、というだけではありません。
しかし、今度こそ、この神様がありがとうと言ってくれるのは、自分なのだと、それがちょっぴり期待していたことなのです。
その為には、無様に力なく横たわる、哀れな怪物ではだめなんだ。
貴方のように、生きて。
Helに、寄り添って行かなくちゃならない。
「Sirius…俺は…俺は生きて、帰らなくちゃならない。」
「そう、ですよね…?」
もし、そうだと思って下さるのなら。
私に、貴方を、夢の存在のままにさせて。
「ふっふっふっ……はっはっはっはっは……!!」
Sirius……?
「主は、変わらぬのう。」
「本願贔屓が、大嫌いという顔だ。」
「なんです…それ?」
「主は、読書が足りぬ。この世界には、もっともっと、時間が必要だな。」
「……すみません。」
Siriusは、嬉しそうに、歌うように語る。
「ああ…困ったことだ。どのようにして、主は勝つと言うのであろうか。」
頑なに、認めぬと言うのだな。
それも良い。
我の中に完全を夢見ているのだと思っていたが。
主は、我が思っている以上に、完全でありたいと。
見くびっておったようだ。
我が、衰えたのだとばかり考えておった。
「まさか、ついて来るどころか、追い抜かれようとは……」
違うのだな。
「主よ。我が狼よ。」
「速くなったな。」
「……。」
不意に、涙腺を壊される。
その一言が、私に一体どれだけの力を与えるか。
貴方はちっとも分かっていないのです。
その言葉をもらうためだけに、頑張って来たのに。
そう簡単に、私に与えないでください。
私は、まだ。
貴方に到底及びたくない。
俺はこれ以上、感涙してはなるまいと背を向けた。
そのせいだろうか、Siriusは項垂れ、悲し気に呟いている。
「そうか…」
「つまり始めから、主を置き去ることは出来なかったという訳だ。」
主を、未だ仔狼か何かのように見做していた節があったのだな。
仔狼であるが故、不都合には、目を伏せさせることも、叶うなどと、甘く見ておったのだ。
……そうでしょうか。
貴方は、ずっと待っていてくれたのでは無いのですか?
自分を、殺してくれる誰かが、会いに来てくれる日を。
そう言いかけて、口を噤んだ。
彼が口にした決意に、一抹の絶望を覚えたからだ。
「主を振り切り、我の影を見失わせることは、できぬと。」
「え……?」
「つまり、やはりここで…決しなくてはならぬ。」
「我とHelとが、希望の河を超える為に。」