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121. 才能の限界 3

121. Breaking Point 3


これは、短期決戦ではない。

長い時間と距離を重ねてようやく辿り着いた、最後の一周。


目の前と呼ぶには、余りにもゴールは遠い。

そして溜め込んでいた燃料は、今にも底を尽きそうだ。


しかし、この局面での闘いを挑めることこそ、お互いの望むところでもあった。

それが、狼の走りの誉であるのかも。




初めて俺は、Siriusに先行する状況に立たされている。


視界は鮮明だ。誰かの後に続いて走るよりも、走路の把握が早くて助かる。

Siriusの尻尾が跳ねるのを眺めていられるのは眼福ではあったのだが、転倒の危険と隣り合わせの追い駆けっこでは、その有難さが身に染みる。


そして、この名状しがたい解放感。

真冬の青の世界をひた走る間に感じていた没入感とは、違う匂いが鼻を突く。


あの時のように、同一でありたい、いや一歩劣りたいと願っているか。その違いだと思った。

俺は、貴方を超えるなどと言ったのだから、当然だろう。



目の前に、Siriusがいない。

それだけで、俺の身体は翼を植え付けられたように、軽い。

Skaのように、身軽で敏捷な気がしたのだ。




…しかし、走りやすくて楽をさせて貰えている実感は、微塵も無かった。


“フゥッ…!…ハァッ…ハァッ…ハァッ!!”


きつそうではあるが規則正しく、一切乱れぬ呼吸音。

ぴたりと背後に位置して離れぬ、軽快な足音。


俺に並び、抜き去るその瞬間を、虎視眈々と狙っているのが伝わってきた。

いつでも行ってやるぞ、と。




この威圧感。



…堪らない。



見えない背後に怯える俺が、彼の像を膨らませている。

位置関係が前後したのだ。この変化は即ち、狩る側と狩られる側の秩序の逆転。

獣の唸り声に足が竦む。いつの間にか距離を詰められ、濃色の妄想が脳裏を埋め尽くす。


窺い知ることの出来る情報を脱ぎ捨て、幾らでも、最強の相手を想像できた。

呼吸を荒げていたとしても、実は表情は少しも苦痛に歪んでいないのかも。

彼が積み上げてきた努力とは、想像を絶するものであって、こうして自分に追走することなど、朝飯前だったのではないか。


結局は、一秒一秒を捻りだすようなこの力走も、貴方を引き立てるための、無駄な足掻きであったことになる。



ああ、負ける……!!



次の瞬間には、視界の端に、狼の鼻先が現れる。

俺は心臓を押しつぶされるような恐怖と、敗北を味わうことになるだろう。


追い抜かれたなら、今度こそ逆転の目は無い。

ゴールテープを切る姿を拝む前に、貴方は視界から再び、消える。


そんな恐れを、貴方だって、抱いていたはずだ。


…なのにプレッシャーに抗い、耐え続け、先頭を走り続けていたなんて。

一体どれだけ、強い狼なのですか、貴方は。



“あぁっ……あ、あぁっ……!!あ゛あ゛っ…!!”



しかし、そんな畏敬が生み出す幻想だけでは、もう説明がつかない。


己を奮い立たせるために上げ続けていた叫び声。

それでどうにか保てていた極限状態が、崩れつつある。





間違いない。


私が超える為の壁として立ちはだかる存在として。

Siriusは遂に、本領を発揮してきたのだ。



“ウグゥゥッ…!”



大狼は意表を突くこともせず、堂々と俺の横に並ぶ。

その気になれば、ぎりぎりまで俺に先頭を走らせて、抜かれてからの対応の時間を与えないようにすることも出来たのに。



…もう、俺のことなど、眼中にない。

目の前の好敵手に勝ることは、目的から引きずり降ろされたのだ。


駆け引きなど、無用の領域に達した。

どちらが、己の最も速い走りを、一秒でも長く持続させられるか。

その戦い一点だけに、勝敗はかかっていたのだから。





Siriusが中盤で俺を突き放し、瞬く間に視界から去り際に見せた、一筋の煙。


あれは、本当に惚れ惚れする。

冬の走りの、僅か数分だけ、俺はSiriusが纏った青白い毛皮を実現する夢を見ていたような気がするのだ。


しかしそれは、彼が心の底から走ることを楽しむ中で体現された、ある意味偶然の産物だろうと思った。

言うなれば、己への陶酔。もっと走りたいという傲慢。

心地よい感覚に浸されていたいという、怠惰。

無私の対極。

没頭領域。

'ゾーン' が生み出した完成に違いない。


そして、今の彼は、それとは少しずれている。

脇目を振る余裕は少しもありはしなかったが、もし今のSiriusをじっくりと拝んだなら、恐らくあの、青白い煙のようなオーラは纏っていない。


つまりは、どういうことか。




もしかすると。

…及ばないのでは、無いだろうか?




“ウゥッ…ヴゥゥゥッ……グウゥッ……!!”



内臓が、引き千切られている。


度を越えた筋肉の酷使と足から伝わる衝撃のせいだ。

外傷とは違う角度からの痛みに、息を継ぐ度、嗚咽にも似た声が漏れる。


俺の走りは、ぼろぼろだ。

緩みなく鍛えてきたつもりが、やっぱり自分は誰よりも弱い狼だったらしい。




今のSiriusに、俺の姿は映っていない。

しかし、彼の純粋な意志を突き動かしたのは、俺の叫び声だったのだとしたら。


俺が、貴方よりも勝る。その戦線布告が、Siriusにとって喜ばしいと思えてしまったせいで。


そのせいで、彼は己の至高の走りから、僅かにずり落ちている。

俺の為に、その走りをしてやろうという優しさが、仇となっている。




…ならば、俺が。

俺が貴方と同じ走りを、実現させるしかない。




でも、どうやって?




“…………!!”




感じてください。Sirius。



…どれだけ、練習したと思っているんです?

これでも、十と七つの年。貴方のことを片時も忘れず、真似をして、走って来たんだ。



大丈夫。

きっと出来るから。



その条件は、一つだけ。



それが、引き金になる。



さあ、見せてください。




貴方の、最高の走りを。


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